学校では教えてくれない裏の価値観

日常に根ざした事柄を追求して、はっきりといわせてもらいます。

自分を嫌いにならないために。

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この世にたった一人、自分という存在。

自分は他の誰とも変わることができないし、他の誰かが自分になることも当然できない。
だから、あなたは生まれた時からあなたの人生を送るしかない。
もし、あなたが唯一の存在である自分自身を好きになれないようだったのなら、その人生が少しも楽しくないものであったのなら、それはとても残念なことだ。
そして、もちろんどうにかできるのなら、必ずどうにかしたいはずだと思う。

果たしてどんな方法で、この世界に唯一の自分を好きになれるのか?

それにはやはり、自分の良い部分を一つ一つでも少しずつ増やしていく努力をするしかない。
ただ、最低でもこれだけは守れって思うのは自分を裏切るなということ。
自分を裏切るなっていうのは、自分と交わした大事な約束は必ず守れってことだ。
だから、安易な考えで大事な約束をしてしまうと責任は果たせないだろうと思う。だから、絶対に守るんだ!と思える内容のみ約束する方がいい。
当然、これは自分だけでなく他者に対しても同じスタンスで行くべきだ。

自分の経験談としては、過去に安易な考えで約束をして、それを果たせずに失敗した事がある。
だからそれからは決して守れそうにない大事な約束は絶対にしないと決めた。
そして、逆に絶対に守ると宣言した大事な約束だけはなんとか今も守り続けている。

こういう小さな積み重ねが、自信にも繋がるし、自分を好きになるための大事な方法の一つだ。

地道なことではあるが、気負わず、少しずつ進んでるという実感さえあればいい。
ゆっくりでも構わない、少しずつ良い方向へ向かい続ければいつか報われる。

自分との約束は、必ず守れるような約束からまずは行おう。
それを絶対に裏切らず、自信に繋げよう。

一つも漏らさず失敗せずというのはきっと不可能だ。
しかし、めげずにその道を進んでいけばいつか…



未来を憂う人が政治家を目指すなら何が必要になるのか。

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今日は投票日ですね。
もちろん!ボカァ行ってません、すみません!



この間、大学生の後輩が政治家になって国を変えたいと言っていた。

これからの日本を良くしたいと願い、理想を追い求めて志すのは決して悪いことではない。
しかし、理想だけではあの世界に通用しない。
何が必要なのかを考えて、行動すること。
それを行わなければ、政治家になるのは夢のまた夢だ。
是非、今日の腐った権力者に取って代わってこの国を良くして貰いたいので、今回はこの内容で行く。



実は日本の国民は殆どが政治なんてさっぱり知らん。

この国の政治に関する教育がよろしくないのか、大衆の大半は政治なんて何も知らぬアホです。政治なんて何してるのかさっぱりわからない人ばかりです。僕も含め。
あなたのこだわりの政策なんかを人に述べても、ちんぷんかんぷんでさっぱりです。
だから連中は選挙カーでは、ほとんど名前だけ連呼するという大胆な方法をとっているんですね!
説明しても無駄だから…。




という感じで政治なんてさっぱりな民衆ばかりの中どうやって、力を持たない真面目な人間が当選できるのか?
…これはもう、地道な努力を行うより他にないでしょう。
かつての総理大臣の田中角栄という政治家は、選挙区の家を一軒一軒回って挨拶や雑談を行い、地域の人と仲良くなろうと頑張っていました。

本人曰く、選挙に勝つには「戸別訪問3万軒、辻説法5万回」と語っていたそうです。

こういうとんでもないことをすれば確かに民衆一人ひとりに時間を割くことができ、多くの人に詳しく政策を話せるし、目の前の人が抱える問題をゆっくり親身に聞くことができる。
こういう努力を何度も繰り返し行って、初めてあなたは庶民の味方として認識されると思います。
そして、更に政治家に必要なものと言えば、度胸と喋りと演説と哲学です。
地域の民衆と仲良くなることを主眼に活動を行うのであれば、人々を楽しませる能力は必要不可欠ではないでしょうか?
田中角栄さんはあらゆる場所で凄い演説を行って人々を楽しませ、そして沢山の人気を得た。それを何度も繰り返して大きな地盤を築いて、最終学歴小学校の貧乏人にも関わらず総理大臣になったんです。
いくら戦後の日本とはいえ、これはとても凄いことです。

つまり、政治家とはタレント性が求められている点を理解すべき。

これを理解しなければ、あなたの影響力は一般の域を超えられない。
政治家を志すなら、実力を身につけることにまずは集中してほしい。
そのためには今までに現れたカリスマ性を持つ政治家を何人も勉強する必要がある。
そうすればあなたは何をするべきかわかるはず。

政治家を志すのなら、政治家になるための勉強をしよう。



セルフマインドコントロールの可能性。

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多くの人にとって、日々は忙しい。
分単位で何もかもを行わなくては成り立たない事もある。誰も時間を止めて待っててくれるわけじゃない。
だから当然、誰もが立ち止まることを許されているわけじゃない。
常に動き続けなくてはいけない。

しかし、それを辛いことと思う発想を変える方法がある。

そう、目標は発想の転換、価値観の変更。
つまり自分にマインドコントロールをかけて、今までは辛いと思っていたようなことを可能な限り、楽しみを感じられるような価値観にシフトする。
そうすればあなたに眠る力はどれだけ生きたものへ変わっていくことだろうか。

常に動き回ることを、好奇心などの力によって後押しするのだ。

ただし、理屈でいくら理解しても心が納得しないことには、セルフマインドコントロールは成功しない。
だからこそ、常日頃からポジティブな結果をいかにセルフマインドコントロールに結びつけていくかが重要になる。

しかし、常に動き回ることを辛いと思う気持ちを無くすためには、かなりの根気が必要だろう。
ただ不可能ではないはずだ。
なぜなら、本当に夢中になる程に楽しければに限り、我々は平気で何時間も休まずにそれを行える力を秘めている。
これは意図せずにいつの間にかセルフマインドコントロールの条件が揃っていた良い例だ。

ただ、この困難なセルフマインドコントロールを焦ってはいけない。
日々の暮らしの中のどんな時にも想うというだけでは、割と効果がない。
それに頭の中でずっとそれだけ思ってるのでは息が詰まるはずだ。
これは要所要所でしっかりと行ったほうがいい効果がでる。
そしてその方法とは、ずばり瞑想である。
しかも、深い瞑想状態が必要になる。
さらに、とても高い集中力が必要になる。
だから、これを行う体を作るにはヨガの修行しかないのである。

ここまでお膳立てをすると、もはやセルフマインドコントロールではなく、自己洗脳かもしれない。
まあ何はともあれ、ヨガを行う毎日を作ることが先決だろう。
自分もヨガはまだまだレベルが低いので、これからもしっかり毎日修行です。

というわけで、決まり文句。

人生楽しく生きるためには、心の内側から攻めよう。

ブッダの瞑想法―ヴィパッサナー瞑想の理論と実践

ブッダの瞑想法―ヴィパッサナー瞑想の理論と実践



自分の魅力を金や物に頼るな。

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夜の街に現れる見せかけだけの成功者。

夜の街には沢山のお金持ちが現れ、沢山の自慢話が飛び交い、沢山の酒が消費される。
これはアルコールメインのドラッグパーティだ。
やれ金持ちだの、やれ武勇伝だの、ちやほやしてもらいたくて仕方ない連中が、高い金を払ってまで、若い姉ちゃんに自分を煽ててもらいに行ってる。

これも一つの需要と供給として成り立っているわけだから、それはそれでいいのかもしれないが、どうも人の醜さや薄汚い欲望が集まる世界のように感じてしまう。
だからこちらとしてはどうしてもあの世界に入り浸る金持ちに尊敬の眼差しを送ることができない。
本当に立派な奴とは、生き様からして立派なのであって、金や物が立派なだけでその人自身も立派だと言うには些か足りなすぎる。

誰かに必要としてほしいから金や物や労働力を提供するというのは一番残念な気の引き方だ。
金や物ではなく、あなたの個性で気を引くことができれば一番いい。
金や物とか、そんなもので引きつけても相手はあなたという個人を求めているわけではない。
希望的観測なんざ捨てて、辛い真実を受け止めることをしないといつか一人ぼっちになる。
あなたは必要とされていない。
必要とされているのはあなたの金と物と労働力だ。
あなた自身の中身の魅力じゃない。
だから、金と物と労働力を提供できなくなったが最後、あなたはお払い箱だ。
影ではATM呼ばわりの人生なんて辛すぎると思う。

だから、誰かを喜ばせるためには金も物も労働力も提供することなく、個人の持つ魅力のみで必要とされるような、そんな人間になれるといい。
金や物や労働力が無くたって、人は喜ばせられるものなんだから。

とはいえ、学校で教えられなかったことはわからないのも仕方がない。
義務教育になぜ芸を身につけるような何かがないのか?
人を楽しませられる人間になる教育は今の時代、一番必要とされているんじゃないかと思う。
しかし学校で教わらない内容である以上、他のどこかで学ぶしかない。
だから自然と学べなかったからといっても自分の中身ってもんを金や物で埋めてほしくはない。
そんなものは何時までも残っているもんじゃないんだから無くした時、後でもっと辛くなるだけだ。

たとえお金持ちでも、お金で手に入らないものは手に入らない。
だから彼らは人生を成功させたかに見えても、実は永遠に満たされることがない。
それどころか多くの場合、人には嫌われ、金で引きつけた薄っぺらい付き合いしか維持できず、家族にすら疎まれる。
お金があっても一家離散や離婚、病気は避けられない。

だからせめて、まだ若いうちに気づいてほしい。
先に身につけるべきは、地位や権利じゃない。
己の魅力を常に高める努力をし続けることこそ、人と人との関係で報われるための一番の方法なんだと。
でないと、取り返しがつかない失敗を犯し、老年気づけば家族も友人もなく一人きりという状況を招く。

ただ、揺るがない中身を維持するために、わがままを通して生きるのなら、人と人との関わり合いの中であらゆる衝突が起きてしまうのは当然のことだ。
だから例えば自分の場合、全ての人から好かれようとは思っていない。
まあ、自分自身が非博愛主義で、この世の全ての人を好いてはいないのだから、全てに好かれないのは当然とも言えるのだが。

しかし、だからこそ、こうして我を通した末に生まれた数少ない縁は、貴重だと思う。
お互いの存在を認め合える気の合う人と、楽しく生きていければ幸いですね。



ボキャブラリーを義務教育に加えるべし。

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「面白い人不足」という重大な社会問題を抱えている日本!!

これはもしかしたら既存の社会問題よりも重要な問題なのではないかと思う。
なぜかというと…

我々人間は、面白おかしいことがとっても大好きな生き物だからである。

笑うことはストレス社会に生きる人にとって心のオアシスである。
だからたとえ社会に出ても、みんなで笑いあえる環境さえ整っているのなら、仕事ばかりの暮らしでも、凄く生きやすい世界になるのではないだろうか?

現代人はユーモアがない人間が多い。

残念なことに、昭和の世代の人のほうがユーモアの大切さを理解している傾向がある気がする。
現代人はなぜなのか、いまいち面白い奴が少ない。
ということは…
このままでは、日本は陳腐なユーモアしかない、つまらない世界になってしまうではないか!!
これは人類終焉とかよりもよほど身近で重要な問題だろう!
我々はもっと笑って過ごすべき生き物なのだ!!

下らない話だろうと、アホみたいな行動だろうと、人を楽しませることには変わりない。
初めは恥ずかしさもあるだろうし、失敗も仕方がない。
だが、あなたの周りのみんなも、どうせ誰かと共に過ごすなら、面白い人と過ごしたいはずだ。
例えばウンチクだって普通ならつまらないところを、ウンチクすらも面白く話せるのなら、なんであろうと「良い」と感じるものである。だからなんでも面白いほうがどう考えてもお得なはずだ。
だからこそ、面白くない人っていうのは凄く勿体無い事だと思う。
是非今からでもユーモアを訓練して、笑うという快感を「与える側」の人になってほしい。
笑いが国民全体をいかに喜ばせるかを考えると、国を挙げて人材育成に取り組まなくてはいけない!
当選したくて四苦八苦してる政治家も、「笑いで日本を変える!!」とか言えば若者が面白がって投票するんじゃないだろうか?
もちろんその場合は「政治家は嘘つきなので、これも嘘です。」なんて許さんです。

それと、おっさんギャグだって雰囲気を良くするためには大事!例えウケなくてもね(笑)
ウケないギャグばかりでも、そういう楽しませようとする心遣いは皆察してくれるだろう。
だから少しづつでいいから、皆でどんどんチャレンジして一緒に笑いあえるといいなと思う。

そして、これからの子供が担う未来のために一番効果的なのは、学校がこの問題に取り組むべきだということ。
今日の学校教育というものは、人を助けることの大事さや、人のために働くことの大事さは教えても、人を楽しませたり笑わせることの大事さは教えてくれない。
そういう部分を見ても、学校の教育はうまく人の心とリンクできていない気がするのである。
学校では、人に迷惑をかけずに、人を傷つけたりせずに、大人のいうことをよく聞いて正しく育ちましょう!と教えるのだろうが、勿体無い事にユーモアや芸の大切さは教えない。
いかにボキャブラリーというスキルが、その人の人生を豊かにするのかという点には、義務教育は介入しないのだろうか?
確実に生徒からは大人気の授業になると思うのだが。
そんな授業があったら生徒もやる気満々だし、みんなでユーモアを競い合って、終いには校内漫談会のような催しまで開催されて、両親も我が子の話にウケるという好循環!
そしていつか世界的に有名なコメディアンを輩出するかもしれないぞ!!

だから、是非子供のうちから、ユーモアセンス向上の教育を取り入れてほしい。
そしたら世界中から「日本人は面白い奴が多い」なんて評価を頂けるじゃん!!
そして日本人の国民性は「ユーモアで築く和を大切にする民族」に変わるかもよ!!

うん、いいね!
それでいこう!!

なぜ、あなたの話はつまらないのか? あさ出版電子書籍

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ブログは現代版タイムカプセル。

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最近こうして記事を書いていて気づいたこと。

それは…

ブログという手段を用いて個人の生きた記憶を残すことこそが、あるいは人生の中でも特に大事なワークなのかもしれないぞ!という事です。

写真を残すことも良いとは思うのだが、どんな人であったのか?、どんな人生を送ったのか?どんな哲学を持っていたのだろうか?写真から推測できる情報には限りがある。
だから、沢山の情報を伝えたいのなら文章で書き残せるブログのほうがいい。
今を生きる人間の、日常や考えや経験を文章を通して読み取ることができる。
それも、多くの場合はちゃんとした読みやすいコンテンツになっている。
自分という人間がどのような考えで生きているのかを他者に伝えたい時にも大いに役立つ。
文章というものは自由度が高いものだ。組み合わせは無限大で、やりようによっては傑作にもなり得る文章が誕生する。
さらに文章は新たな世界観すらやすやすと創造する。
架空の世界のドラマまで描けるのが文章である。
 

ブログは日本の文化への貢献だろう。

ブログとは、個人の人生という生きた証を残す作業である。
そしてそれは、世の中に対して非常にポジティブな行動だと言える。
なぜならこれは、自分のためでもあり、人のためにもなるからである。
だから、読んだ人の利益になる文章を書いて書いて書きまくるワーク、これを行ったブロガーはかなり日本の文化に貢献したといえるはずだ。
 
数年後に自分の記事を見て感慨深くもなれるこれは、やっぱり現代版タイムカプセルだとも言える。そして同時に生きてきた証を残すことでもある。
 
みんなちゃんと良い文章を書いているよ!

ヤローチックショー!負けてられん!
俺もやろう!

 

 

LIFE STORY

LIFE STORY

 

 

 

 

クレクレタコラ見て我が振り直せ。

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この世には大きく二つに分けて

「与える側」 「 与えられる側」
の人間がいる。


ただ勘違いしてはいけないのは、この二つの関係はきっちり分かれているわけではない。むしろ厳密には分かれていない。
いきなりわかりにくくして申し訳ないが説明すると、
普段は与える側も与えられる側にもなるし、普段は与えられる側も与える側になることがある。
この二つが、お互いバランスを取り合いながら、この世界は成り立っているのである。
しかし、世の中にはこの関係を理解せずに与えられる側にずっと居たがる人が多くいるようだ。
わかりやすく言えばギブアンドテイクがわからない人々のこと。
彼らは与えられることをいかにも当たり前かのように感じているのか、何様だ?と思ってしまうことが多々ある。
それまでの人生が恵まれていたのか、一方的にくれるだけの人が身の周りに沢山いたのか、何かを受け取っても嬉しそうにすらしない。それでは与えた側は気分が悪くなると思うんだが…。
連中はどうやら受け取ることへの感謝という気持ちがすっかり欠落しているようである。
これでは他人に好かれるはずがない。
きっとそういう人は与える側になったことがほとんどないのだろう。
だから相手の気持ちなんか考えたこともないデリカシーの欠片もない人々だと思ってる。


それと、お金さえ払えば感謝する必要は全く無いと思っている上に、接待ようなことすら要求してくる輩。
そういう人、嫌いです。
確かに多くの接客業では「お客様は神様」という教育を押し付けてくるんだろうが、殆ど誰もそんなこと納得してやってるわけがない。
そりゃそうだよ。

威張り散らした最低のクソ野郎が神様であってたまるか。

連中は本当に自分を神様だと思ってるからあんなに威張れるのだろうか。

「オーマイガー」


というわけで、もし少しでも心当たりがある方は今からでも決して遅くありません。むしろ気付いただけまだマシな方です。
受け取る事を当たり前と思う前に、与える側を経験してみましょう。
ただのクレクレを脱して、人に喜んでもらえる何かを自分の中に身につけましょう。そして、人を喜ばせる何かを作り出し、提供するのです。
そうすればなんと、相手が喜びます。

どうせなら、生産的に楽しく生きましょう!