学校では教えてくれない裏の価値観

日常に根ざした事柄を追求して、はっきりといわせてもらいます。

男女交際免許制度

恋愛感情は本当に危険な側面がある。

世の中には沢山の男と女がいます。
その中でも、比較的良いと思われる男女は限られており、現在もなお、全国各地で優良な男女の争奪戦が繰り広げられてますね。
相手に好かれて求められた人は、その人から見て優良な異性であると認められたのだから光栄でもあるし、有難く感じることもあるでしょう。
しかし、求めてきた相手が特に好きでないどころか、苦手なレベルの相手であったなら、その思いは決して有難いものではなく、それはむしろ恐怖でしかないということに、どれほどの人々が気付いてるんでしょうか?
かく言うこの私も、これに関する失敗経験が…。

恋というものは見事に人を狂わします。
相手の愛が、欲しくて欲しくて仕方なくて、どんな犠牲を払ってでも手に入れたいと、そういう気持ちになった経験がある人は割と多いのではないでしょうか。
好きだという気持ちは、基本的には悪いものではないというのは、確かにそうとも言えますが、この思いが客観的にも美化されるパターンと申しますのは、残酷なことにかなり限られているのです。

それは、そこそこに容姿が優れ、清潔感のある若い男女の場合のみです。
ハッキリと言わせてもらいますが、この場合以外の連中の恋煩いは、殆ど恐怖しか生みません。


考えてみてください。
キモい不潔な中年男が、清潔感のある若くて可愛い女の子に恋煩い。
これは美化するどころか、即座に警察に突き出すべきではないかと錯覚してしまうほど、恐ろしい光景です。

逆も然り。
ブスで年増な喪女が、清潔感のある若いイケメンに恋煩い。
こんな光景を美しいなあ、応援したいなあと思える方は、正常ではありません。

この例は極端な例ではありますが、恐ろしいことに割と珍しくない実例でもあります。
時にはストーカーへ発展し、凄まじい恐怖と悲劇を引き起こす、完全なる社会悪であり犯罪です。
社会悪や犯罪と言うのは可哀想ですが、現実は残酷なのです。
一部の方々の純愛は、警察が取り締まる必要があるのです。冗談ではなく、割とマジで。

全ての人が、幸せになれる世界じゃないんですよ。この世界は。
全ての人が、分相応な価値観を抱けるのならまだしも、世の中の価値観は基本的には共通しており、冒頭でも申した通り、良いとされる男女は限られてます。
その、良いとされる男女の中でのみ、争奪戦が繰り広げられているのなら、比較的平和な恋愛模様ではあるのですが、この優良男女の争奪戦にエントリーしようとする輩は、その限りではありません。

だから、ほうひんは考えてみました。

極論ではありますが、以前にも記事にした時に口にしましたが、男女交際は免許制にします。
免許にも階級制度を設け、レベルによって分相応の人々の中で争奪戦を行うようにするのです。
よりレベルの高い免許が欲しくば、自分を磨き上げ、試験に臨み、合格したら免許交付を認められるというものです。
もちろん、この提案には全国各地で沢山の不平不満が沸き起こるでしょう。
しかし、この提案は確実に支持されますよ。
求められる当事者である、良いとされる男女の方々のほとんどには。

AKBとかのアイドルも、キモいおっさんに好かれてウットリするわけがないでしょう。
金が欲しいから我慢して握手してるだけです。

ジャニーズも…以下略。


現代社会の心に対する考え方に危険信号。

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現代社会では、うつ病による問題がしばしば取り上げられているが…


うつ病や心のストレスによる不調。
それまでは普通に生きていた人が、度重なるストレスに打ちのめされ挫折し、立ち直れなくなる。
無気力になり、将来に悲観し、自身の存在価値すら疑ってしまい、命を絶つ人だっている。
社会に必要とされるであろう人物になりきれなかった人達は、どうすればいいのだろうか。


そもそも人は、感情で生きている。

このポイントを現代社会は見誤っている。
体は健康でも、心が不健康になったら動けない。その逆もまた同じ。
結果的に、心も体も両方が健康でなくては、人は健康的な毎日を送れないのである。
しかし、現代社会では心の病を軽視しすぎている。
体が健康なら動けないのはただの甘えだと言われてしまう。
「やる気がないなら辞めてしまえ、代わりはいくらでも居るんだ」と言って、そんな風に言われてしまったら、それまで働いてきたのに可哀想な気がする。
それまで苦労を共にして頑張ってきた仲間だろうに、そんな簡単に仲間を見捨ててしまうような会社にすら忠義を尽くせというのは、随分と虫のいい話のように思う。
どうしようもなく辛い時、親身になって話を聞いてくれる上司がどこの会社にも居てくれたら、鬱にならずにどれだけの人が救われただろうか。誰しもパワハラは辛いと思うよ。
社員は会社の宝だというポリシーの会社はもうどこにもないのだろうか。
心こそが人間の根本であり原動力となるのに、体さえ問題無ければ動くのだと思われては話にならない。
うつ病や心の病がこれほど問題視されているのに、現代社会は冷酷だ。

人は機械じゃない。心を無視して動ける生き物じゃない。

…ただ、これからの社会はオートメーション化がどんどん進むし、そういう所で働く機械は心なんて考慮しなくても、物理的な限界を迎えるまではとても従順に動く。
でも、今はまだ人間が働く時代だ。
機械相手の考え方になってしまうような時代にはして欲しくない。
確かに、将来的に人類は理屈を優先できる人工知能に支配されると思う。
元々、人間が人間らしく生きられるために、この社会が存在するのだというのなら、この先の人工知能支配の社会は利益という数字だけではなく、人の心のバロメーターも生真面目に追求できればいいのに。
どうせ働くのなら、誰しも楽しい職場に入りたいと思うのが当然のことだろう?
甘い考えかもしれないが、そこで過ごす上で心の充実さえあれば、そこから人は居なくならないし、ちゃんと真面目に動くし、仮に利益も数字としては少なくなっても、嫌々行って生み出す利益とは違った価値があると思う。
楽しかった思い出の共有が、信頼に繋がる。
何より人は、一人を寂しがる傾向がある。
理由がなくても誰かと会っていたい時もある。
仲間との信頼を実感しながら、共に困難を乗り越えようとすることこそ、人生に華を添えるドラマのような気がする。
お金なんて必要最低限あれば、後は楽しい仲間との楽しい時間だけで充分満たされるかもしれない。

だからこそ小コミュニティーが沢山必要だと思う。


だから理想的な職場がないのなら昭和の偉人達のように、一から作るしかない。
そして、気の合う仲間と共生の道を築いて、楽しく生きていけたら凄い。
これからの時代は、恐らく余計に心のつながりが希薄になるから、敢えてこれからは心のつながりを重要視していた昭和の偉人である松下幸之助本田宗一郎などに習い、再び家族のような会社経営が必要とされていくに違いない。
共に戦う仲間っていうものは、色んな心を満たすいいものだと思う。

心ない現代社会のブラック企業なんぞに、たった一度の自分の一生をくれてやる必要はない。
体と心の両方を大事にできる会社が、昭和の頃のように盛り上がっていってほしい。
それはきっとサークルのような楽しい雰囲気を持っているだろうから、他所からは楽しそうに見えるに違いない。
日本各地、そういう場所を作ることが多くの人の目標や願いになれば、この国の雰囲気は変わると思う。

みんなと共に助け合って生きていきたい。人を大事にしないブラック企業の世話にはならない。



下心のない優しさとは

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優しさというものは、色々な受け取り方がある。
その中でもモラル、一般常識というもので見れば、優しさに下心が絡んでいると良い評価に繋がらないらしい。

では下心のない優しさとは、厳密にどのようなものなのか?
……思いつかない。
下心のない優しさなんて、存在するのだろうか?
なぜ自分がそう思うかを説明するために下心についての個人的な範囲枠組みを説明してみる。

まず、行おうとしている優しさの中に目的や意味、利益がある場合、それは立派に下心を含んでいると思う。
直接優しさを受け取る相手に直接的な利益などがなくても、施す側に行う目的や意味が存在していれば、優しさは単純に自己満足達成の手段の一つに過ぎず、そこに人としての清らかさや道徳観念を交えて評価するのは、行為自体の本質を見抜くには相応しくない。

もちろん、こういう考え方が一定数の人たちに喜ばれないであろうことは、わかっている。

しかし、本質を見極めようとすることは重要で、優しさの裏側、目的や意味などを探るなんて道徳的にはよくないと言われても、心ない人々に騙されずに生きていくためには仕方なしに疑わなくてはいけない。
本質を理解し、表向きは無償のサービスの裏に隠れた落とし穴を見つけなくてはいけない。


それと優しさとは、目的や意味を含めることで力を増す。
愛する人の笑顔のためだったり、傷つき悲しむ人を癒して笑顔を取り戻してあげたり、自分の自己満足以上に誰かのためになるのなら、優しさというものには、みんなも大いに下心を加えるといい。
優しさに下心を加えれば加えるほどに自己満足は増えるし、多くの人の笑顔にもつながる。
ならば下心を肯定してあげようよ。
肯定した上でなら、そこまでいやらしいって事もないだろうに。
逆に優しさから下心を意図的に排除していくと、やる気が減るだろう。
例えば好きな異性に優しくするのには特に下心が強く働いているよね。

世間のイメージが言うほど悪い奴じゃないよ、下心って奴は。

ただ、一部の方々が無償の愛だの喚いて下心を嫌っているだけです。
個人的には無償の愛よりよほど下心の愛のほうが、世界平和に貢献すると思っているよ。

下心を備えた優しさ、大いに結構。

優しさには好きなだけ下心を加えて少しでも多くの幸せを作ろう。

人類滅亡のシナリオ。

無痛文明論

無痛文明論

森岡正博という哲学者の無痛文明論という本は、初めて読んでから随分と経つが、今でも限りなく高い信ぴょう性を持つ内容だと思う。
もし、時代を先読みしたいと思う人が居たら、この無痛文明論は目を通しておいた方がいい。
以下の文は無痛化というワードを理解した人に向けて書いているので、そうでない人にはわからないかもしれない。


無痛化はどんどん人を中庸なものに変えていく。

便利な世の中はいずれ人類を根絶やしにするだろう。
抗う方法はない。
どちらにしても、悲劇が付きまとう。
中間は無い。
世のため人のため、世界が頑張り続けた結果、人類滅亡とは厳しいね。
無痛化、人類奴隷化は、人類が望んだことだから仕方ない。
創造維持破壊。
情報ネットワークの普及によって世の中は大きく動き続けている。
音も無く忍び寄る人類の最後が、もう遠くない未来に訪れる。
人類を根絶やしにするのは、核でも天変地異でもない。
合理化とネットワークだ。
人口はどんどん減少し、日常には危険がなくなり、事故で死ぬこともなく、恐怖を知らず、寿命を全うして逝く。
性交渉なくして子供は誕生し、親なくして子は育ち、温室から一歩も外に出さず管理下の元に生き続ける。
おそらくほとんどの人は去勢される。

つまり、人類による人類の家畜化。

それが滅亡へと続く。
生命倫理なんぞ、人の欲望に敵うわけがない。

スピリチュアルVS科学

どちらに大きく転んでも人類滅亡。
おそらく今後も科学が優勢だろう。
宗教もオカルトも、合理化が進むごとに駆逐されていくのだろうか。
徹底管理は息がつまるよ。
平和の代わりに、虚ろな表情の人々。
トラブルの無い生活の代わりに、勇気をことごとく失った未来人。
アップルはiCloudで個人のプライベートを管理してくれるが、便利だとそれだけアップルに依存するようになる。
アップルは我々の生活をより無痛化してくれるはずだ。
siriもそのうち人工知能が進化して、ビジュアルを持つようになるだろう。
声も表情も仕草も、とても人間らしくなり、アップルが管理するiCloudのパーソナルデータを参考にして、siriはあなたの一番の理解者となるだろうし、親友あるいは恋人になるかもしれない。
そして、機械との意思疎通が主になって、しまいには人間の必要性が議論され…


無痛化は、人類の英知の結晶であり、同時に滅亡の鍵となる。

ならば、無痛化を止めよう!という意見もあるのだろうが、あなたはやめられるか?この便利な暮らしを。
無痛化は止まらないし、無痛化ほどビジネスになることもない。
家畜になりたいのなら、家畜にしてあげることが、善行ではないだろうか。

さあ、歩もう。これからも、滅亡に向けて。

人類の英知の果ては終焉に向かい、休むことなく滅びへの道を進み続ける。

文字は万能じゃない。

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文字という文化は、人類には欠かせない大事なものだ。


しかし、どんなに上手く文字の羅列を作ろうとも、伝えられないことはある。
昔からも文章でのコミュニケーションは存在していたが、短い一言の文章ではなく、内容も報告するような調子のものであり、現在でいうSNSのような、絵文字や顔文字などの感情を表す内容は組み込まれていなかった。
しかし、現代ではプライベートな会話のほとんどはSNSで行われている。
プライベートな会話には感情を伝える必要がある時がしばしばあるが、文章では伝えられる内容にも限界がある。
文章でのコミュニケーションはリアルタイムな受け答えではないし、お互いの顔も見えないから嘘をつき易い。

だから、人はネットの時代になっても実際に会うことを必要としている。

会って、目を見て声を聞いて空気を感じて、初めて意思が伝わる。

文章は便利だが、万能じゃない。
まあ、本物のペテンは全てをごまかせるらしいが…

ちなみに俺は不器用です。
多くの場合、本音しか語れません。
全く心にもないことは口にしません。
それが仇となることもあるほどにね。


SNSというものが、簡単なコミュニケーションを可能にした反面、希薄な関係を作りやすくしたのだろう。

だから今まさに必要なことは、実際に会う人々で構成される小コミュニティーだ。

これは、ビジネスの種のような気がしている。
インターネットは気の合う人も見つけられるが、日常的に会える距離から見つかるに越したことはない。
小コミュニティーが流行れば、きっと文化も盛んになるだろうに。
ただドラマは良くも悪くも増えるだろう。

思い出が増えるよ。

家入一真に教えられた、本当に必要なもの。

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失敗はいくつになっても尽きることがない。

目的のために貪欲になり、挑戦をやめないからこその結果でもあるが、ある程度下らない失敗も繰り返してしまう。
原因となる欠点を無くしていくことができれば一番だが、原因が気質にあった場合はどうにもならない時もある。
先天的な気質は変わらない。
変わらないならいっその事認めて尊重してあげたいものだ。
気質こそアイデンティティーを確立するための根本であり、その人自身なのだから、なるべく否定したくはないだろう。
特に自分のことは。
それなら違う部分を伸ばせるだけ伸ばそう。
みんなとは逆の方向だろうとも、伸ばせるだけ伸ばそう。
それが人のためになることになれば、あなたは人々に歓迎される。
欠点は補い合えるのだから、完璧でなくてもいい。
ただ、その補い合う度合いによっては、希薄な相互依存しか築けない。
だから本当に信頼を持って補い合えるのは出会えた人々の中でも僅かな人とのみ。

ただ、現代は補い合える人がいなくても生きていけるためのサービスが提供されている。
だから人との関わり合いによって満たされるであろう心の充足がなくても、ごまかしながら生きていける。

これから先の未来、一体どれだけの人と関わりあえるのだろう。
その中でもきっと、仲良くなれる人は数少ないに違いない。
それなら今どうやって必要な縁をつなぎとめられるのか?

家入一真の考えを教えてもらい、論理的に理解ができるようになった。
だから俺も金が欲しい。
人は生きるために金がかかるから、最低限は持ってなくては話にならない。
俺もみんなも少なからず寂しがり屋だ。
人には集まるところが必要なんだろう。

人  場所  物  ドラマ

これらが人生に必要なものだ。
これらを手に入れることを目標として、これからの振る舞いを考えていきたい。

これから先、どれだけ笑いながら過ごせるのかは、自分自身にかかっている。
どこまで出来るかはわからないが、大義やドラマに踊らされつつ頑張ろうと思う。

オカルトの有効活用を目指す。

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今回はオカルトについてのお話です。


最近はブログがない分ハタヨガの修行がとても良く進み、さらなる修行の一つとして真言密教マントラを取り入れての瞑想を行っておりましたが、これははじめに言ってしまえば、オカルトの力を借りるための方法です。
どうしてそんなに怪しいことをし始めたのか?
それを説明しようというわけで本題に入ります。

基本的に人は感情で動き、感情は理屈ではどうにもならないほどの頑固である。

しかし、そんな頑固な感情もオカルト的要素にかなり弱いらしく、大きな影響を受ける。
 だから、感情の力を味方につけようと色々突き詰めていくと、どうしてもオカルトじみてくるのだ。
病は気から。この言葉は知ってる人も多いだろう。これもオカルトである。
こういうオカルトも医学の発展していなかった時代には、一番の特効薬だったに違いない。
それに現代のお母さんも子供に痛いの痛いの飛んでけーとかオカルトを駆使しているようだ。
あと、プラシーボ効果とは、水素水とかああいう物に効果を感じた時のことであり、これもオカルトである。
オカルトの感情効果は、信じる素直さと強い思い込みでより強く引き出せるのかもしれない。
良い効きが表れるなら儲け物。
人間の可能性というものは、外の世界よりもむしろ、内面世界である無意識下に沢山眠っており、それを引き出すためにはオカルトこそが有効な手段の一つである。
ただの水だって相当迫力のある儀式をすれば、尊い神水とかになって、飲んだら病気にかからないって無茶なこと言って飲ませても、尊い水に感動してすごく深く信じれば本当に病気にならないかもしれない。
逆に、今手にしているこの普通の飲み水を特別綺麗で神聖な場所で汲んだ富士山の天然の湧き水だと思って飲めば、とんでもなく美味しい水になるかもしれない。

つまり、人間が幸福を求める以上、ある程度のオカルトは有効に使うべきだろう。

ただし、全員がこれをやると危ない世界になるので、やりたい人だけやる方がいい。(笑)
ただ、オカルトの世界は力がありすぎて果てしなく危険である。
お化けだって、信じる人にとっては恐ろしい事この上ない。
そして、オカルトは人を脅すなどの方法にも有効な手段なので、悪用厳禁だろう。
呪術だって、そのオカルトさえ相手に信じさせれば、人だって殺せるほどだ。
そんなオカルトを豊富に扱う宗教というものは、指導者の意向によっては、大量殺人へと繋がる可能性もある。


オカルトは単純に信じるか信じないかのどちらかでしかない。

使い方をうまくすれば、人生をより幸福に送るために欠かせないものになるが、場合によっては酷い結果に至るかもしれない。
オカルトの中にも良いのと悪いのはあるのだからよく考えてから合うものを探すといい。
アドバイスとして言えるのは、誰かに帰依して、力を借りて行うようなオカルトにだけは手を出さず、自分一人で行えるものにするべきだというのと、当然唯一信じるのは自分であるというのと、オカルトはそれに従うためのものではなく味方であると捉える方がいい。
この力を自身の自己実現に利用したいのなら最新の注意を払ってどうぞ。


この世はずっと昔からオカルトに支配されている。

今までの歴史からも、オカルトが沢山の悲劇を生んだことも確かだ。
でもある程度はオカルトがないと、世界は味気ない。
オカルトで幸せを手にした人だって居たはず。
だから、これから先の時代にも人間がいる限り、オカルト文化は生き残ると思う。
良くも悪くもオカルトは無くなりません。
ならいっそのこと、オカルトと前向きに共存する体制に移行するべき?
くれぐれもお取り扱いは慎重に。