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学校では教えてくれない裏の価値観

日常に根ざした事柄を追求して、はっきりといわせてもらいます。

どんな文明も滅ぶ運命にあるのだろうか。

文明は常に進み続けている。確実に便利な社会が実現している。その事は誰もが感じているはず。
しかし、意図せずも、文明発展が同時に人と人との繋がりを希薄にしてしまった。
わざわざ頼んでまで人の手を借りずとも、ネットワークの普及により、あらゆるサービスに頼れば情報も手に入るし、人の手を借りずともそれなりに生きていけるから、面倒な付き合いごとにも関わらなくて済む。
しかし、結果として助け合わなくなった現代人には、もはや友達すら信じることすらも難しくなった。
なぜなら、不自然に親切であると逆に疑われる世の中だからだ。
少なくとも日本人では、ほとんどの人が、本当に全ての心を許せる隣人など、誰一人いないのかもしれない。

仮に同性と仲良くなりすぎると、同性愛を疑われるし、もはや社会的には、心許せる隣人とは恋人や伴侶以外には実現できないのか。
核家族化の行き着く果ては、ほとんどが核個人化、上手くすれば核夫婦化、更に良くて、ようやく再び核家族になれるのか。
それならば、尚のこと恋人や伴侶の相手選びには妥協できない。多くの人が、無意識にもそれを感じているからこその未婚率増加傾向なのか。
そんな現代でも、なんとか幸せな結婚が出来た人は多くないだろうから、素直に祝福したい。
ただ、これからの子供は今よりも更に選択肢の少ない中から伴侶探しを行わなければならないから、やはり今後、人口増加傾向に進むようには見えない。
経済的にもいきなり好転する可能性は考えにくい。

そして、現在の支配システムは盤石だ。社会構造、支配層の大きな変化はありえない。
もう二度と田中角栄のような、低学歴の覇者は現れないだろう。
確実に、定められたレールの上を進んだ者にしか、成功は与えられない。
江戸時代の士農工商ほどではないが、高学歴の子は高学歴、低学歴の子は低学歴。生まれた時の格差から抜け出す事は難しい。

つまらない人間の多い、つまらない時代になった。

便利さや合理化を進め、テクノロジーの進歩、死亡率の低下、あらゆる事が進歩していってるのは事実なのに、人々の幸福度や満足度は一向に上がる気配を見せない。
将来に対する不安しか見えていない。
めでたく結婚し、経済的な不安もない中で出産できたとしても、その子供の未来がどうなるかなんてわかりっこない。
もしかしたらその未来、子供は生まれてきたくなんかなかったと大きくなってから思うかもしれない。
親としては、避けたいと思うべき未来だろう。
まあ、いつの時代にも、勝ち組負け組はあるものなんだが。

全ての人が幸せになれる世界じゃないのなら、子供を産む責任は余計に大きい。
自分の人生の彩りを増やすために、子供を産むのか、盲目的に子供の未来を信じて産むのか。
どちらにせよ、未来が明るいとは言い難い。

いっそのこと、どんな境遇にあるような人も、テクノロジーの力で新開発したドラッグで、いつでもどこでも満足感の得られる状態を作れるようにすればいい。
そうすれば、この世のすべての人が、心にゆとりを持つ事が出来、他者に優しくできるだろう。
そして、その新薬はきっと世界を支配する。
ただ、もはやそれは人が人らしくない薄気味悪い世界であろうと思う。
…いや、現在、既に充分薄気味悪い世界なのかもしれない。

現状を当たり前と捉え、漫然と生き、疑問を持たず、それに気づいていないだけなのかもしれない。

そして、文明は発展とともに着実に衰退への道を進みゆく。

せめて、人類が最後の時まで夢と希望を見続けられたら幸いに思う。

差別問題とは弱肉強食世界の都合上の建前に過ぎない。

面白い質問をして頂きましたので、久しぶりに記事を書きました。


向上心、それは少しでも今の自分より良くなりたいと願う気持ち。そして同時に、他の誰かよりも良くなりたいという気持ちでもあります。

多くの場合、向上心は自尊心から来ており、自尊心は自己の存在を肯定する上で欠かせない気持ちだと考えます。
これを無くした人間はきっと無気力になるだろうし、自分の事を好きではない状態になると思います。
そして、自分を大事にしようという気持ちすら、薄れていくのではないかと思います。
だから、人間は生き物としてより良く生存するために、自尊心を持つことが必要だったのかなと思います。

群れを作って生きる動物も、ボスと呼ばれる個体には、メンツやプライドがあるように見えます。
決して、弱みを見せないで、堂々として、より優れた存在であることを周りに示している。
だから、群れを作るタイプの動物として分類すれば、人間も同じですので、この人間社会という大きな群れの中で、より良い生き方をする為に他者より優れた存在になりたいと思うのは、本能としては当然の事だと考えますよね。

なので、向上心の根底には差別的感情が存在しており、引き離して捉えることは不可能かなと思います。

例えば小コミュニティーを求める感情にも、差別的な意味が含まれます。人を選り好みして仲良しとだけ助け合いましょうというものですからね。

それと、差別という概念については、褒められるとか褒められないだとか、そういう見方だけでは本質が見えないのでは?と私は考えます。

数ある種類の中の動物の一つとしての我々人類。
食物連鎖の頂点に位置するということは、そもそもが、奪い続けた生存競争の結果。
そして、人間社会の中だけでも、より良く生きる為に生存競争を行い、今日も何かを犠牲にしては見て見ぬ振りをしています。
まあ、もちろん他の動物も、食べる為に別の命を奪いますので、人間だけが悪であるとは言い切れません。
ただ、現実は平等に、力無き者に甘くない、それだけのことです。

なので、生き物として、生きるか死ぬか、欲を満たせるかどうかが、本能の中の根底にある以上、人の中に存在する善の心なんてご都合主義の幻のようなものです。

心のゆとりを失えば、人は理性を失い、幾らでも狂える動物ですからね。

しかし、善と悪という概念が普遍的に存在し続けている人間社会では、モラルという都合上、善を装い悪を隠し、本音ではなく建前でのみ言葉を語る、それが割と当たり前になってます。
なので、基本的に綺麗事なんて建前です。
本物の善人なんてフィクションでしか存在しません。

自分を大事にしようという気持ちが、差別を生み、派閥を作り、戦いに発展するのであって、この現象も、群れを作るタイプの生き物としては、割と想定内の動きのように見えます。

ただ、我々は知性を持つ人間ですから、その知性を駆使して、これまでにも色んな人々がより良い暮らしを模索し続けてきました。
現代でもその例に漏れず、左翼的な一部の人は、みんながみんな幸せになれるような理想を追いかける傾向があります。
僕も昔は考えたこともありましたが、みんながみんな幸せになるというのは、どうやってもあり得ることのない状況であるとわかりました。
人間はいつだって、自分よりも不遇な環境にある人を見つけたり、自分より能力の低い存在が居ることを認識しなくては、優越感を得られず、特別感や自尊心も保てないからです。
それに、幸せとは、不幸せという概念があってようやく認識できるし、成り立つ感覚ですからね。
全ての人類から、不幸せがなくなる世の中とは、割と怖い雰囲気の世界かもしれません。

支配者の綺麗事だけに踊らされることなく、この社会における本音と建前を認識した上で、情報を得ては考える。
それがこの現代における、騙されない生き方の一つなのかもしれない。

でも、知的生命体である人間も、頭は良いけど基本的に遺伝子別に本能に従う動物です。その本能の個体差が性格だとしたら、性格と感情は同義語なのかな?

ふと、思い出したのは、坂口安吾堕落論。一瞬はフィクションのような生き方に挑戦しようとしても、人は堕落するのが当たり前。とても的を得ているなあと納得しました。

批判の陰口は連帯感を育むし、盛り上がる。

まあ、いきなりこんなタイトルでね。気分を悪くする人もいるかもしれませんが、僕のこれまでの経験上、批判ネタの陰口ほど、共感できて、よく盛り上がるネタは他には中々無いんですよね。
ただし、道理も何もない批判ネタ以外の悪口は下衆のやることです。
ただの悪口に共感できる人はあまりいないし、不快に感じると思います。
共通の被害者の会というスタンスで、あくまで正しさを語る側で盛り上がるのが好ましいですね。
辛かったね、大変だったね、と話し合うことで友情を育み、対象の批判ネタで盛り上がるのです。

ということで、まあ、今回は悪口の中でも、批判ネタを中心に見ていきます。

そりゃあ、言われる側としては凄い気分悪いでしょうね。
でも、他人を不快にさせた事実と、改善するべき点があるのだと思い知らされる意味では、一歩成長するチャンスでもあります。
だって、批判ネタはほとんどの第三者の立場から見ても、確かに批判されるような内容ですから。
例を挙げて、説明しますと…

例えば、まず耳が痛いのは、体臭の事。
体臭ってのは自分ではわかりにくい点もあるので、自分の体臭に気が付かぬまま表へ繰り出し、世の中色々なところで被害者をいたずらに増やすものです。
おかげで、多くの人が共感して盛り上がることができる定番の批判ネタの一つです。
何せ個人差はあれど、クサイ匂いというものは殆どの人にとって不快なことなのです。
嫌でしょ?すぐ近くでおならされたら。
そのくらい我慢しろよと思う人もいるかもしれませんが、そもそもまず、人が嫌がることは控えようと気遣う気持ちはないのかな?
…まあ誰しも共感しあえる悪臭の批判ネタは鉄板です。

日本の現代人はほとんどの方々が、自分がされて嫌だと思う事は人にはやるまいと、他人に気を遣って生きており、その状態が正常とされるわけで、他人を気遣って生きられない人は、他人に多くの不快を与えていることでしょうから、批判されて当然だと考えます。
そして、不快にさせられた人々はそのネタを使って共感をし、友情を育むのです。
同時に対象を無意識のうちに見下して、自分の存在は対象の人物より素晴らしいと感じ、気分が良くなるという面もあります。
批判ネタとは、これほどに良い部分があるので、我々人類にとっては今後も無くなる事はありませんし、とにかく批判ネタは盛り上がるのです。
悪口や陰口は良くない!と頭から決めつけて考えている方々もいらっしゃるかと思いますが、批判ネタに関しては、受けた不快を清算するために行うのだから許してあげてくれませんか?
清算できるどころか、笑えるし、共感できるし、自己を肯定して気分が良くなれる側面があるので、結構美味しいネタなんです。
文句言われるのが嫌なら、原因を改善するかコミュニティーを離脱するか、そのどちらかが、最も効率的な対応です。
それに、批判を言っている以上、自分を棚上げして批判してもカッコ悪いですから、戒めになっている人も沢山いるでしょう。
だから批判を言い合う事が、他人に気遣える人間になる為の勉強会ということですね。
ただし、批判ネタの勉強会は陰口なので、本人には話しませんから、知らないところで勉強会が行われているだけで、肝心の本人は勉強できません。
万が一批判の内容を知り得て、納得できる内容ならば、なんとか怒りを鎮めて、反省し、勉強しましょう。

ちなみに、人間がコミュニティーで生きる以上は、コミュニティー内での批判は絶えません。
コミュニティーの一つ一つに必ず誰か一人は批判を受ける犠牲者が必要です。
犠牲者になりたくなければ、批判の原因を改善しましょう。
そうすると今度は違う人が批判の犠牲者になります。そしてその人も改善したら今度はまた違う誰かが犠牲者です。
桃鉄みたいですね、必ず誰かには貧乏神というあれね。
最低一人は犠牲者です。
まあ、批判ネタを言う側も元々は犠牲者だったりするんですがね。

話はずれましたが、まとめますと、共通の被害報告会と、その批判ネタの陰口は楽しいし、成長する為の勉強会だし、友情を育みますよと、そういうことです。
しかし、言われた本人がブチ切れて襲ってくるというパターンもありますから、ご利用は計画的に。

落語に学ぶ、話芸のチカラ。

現代の家の中には、沢山の娯楽がある。

娯楽というものは、人類にとっては、とても大事なものであって、人々は衣食住という生死に関わる問題を解決できましたら、その次は決まって、その余力を娯楽に費やそうとします。
しかし、昔の日本には、自宅で楽しめるような娯楽などは、ネットワークなどが普及している、今のそれほど多くはありませんでした。

ですから、インドアの娯楽に飽きた方々は、面白くもない自宅になぞ閉じ籠らず、何か楽しみを求めて外へ出かけます。
しかし、初めて訪れるような新たな場所に行くというのは、どこか心細いものです。
それでは誰か友人を連れて行きますか?
もちろん、選べるのなら、なるべく共に過ごして愉快な人を連れて行きましょう。
そうして、新しい体験をし、何かと体を動かし、疲れたりはしましたが、良くも悪くも思い出作りになりましたね。
アウトドアも、めでたしめでたし。


インドア派、要注意。

技術の進歩と便利化する社会とともに、忍び寄る無痛化の闇。

しかし、先ほども少々触れましたが、現代はネットワークやパーソナルコンピューター、スマートフォンがとても普及し、家に居ても沢山の娯楽がありふれておりますので、外に出掛けなくてもそれなりに楽しめるようになりました。
その影響でしょうが、昔と今の若者たちの関わり方が、随分と変わりつつある感じが致します。
実際に会って話さなくとも、スマートフォンで連絡が取れるので、全国の若者に限らず、大人たちの間でも、中身の薄い文字のコミュニケーションしか行われず、目や口や手振りや感情を駆使する、対人のコミュニケーション能力が退化してしまっている人々が、多いように思います。
だから私も、出来ることならスマートフォンより愉快で面白い人間となれればいいなと思います。
 

何せ、面白い話ができるというのは素晴らしいことです。

話が面白いと、一緒に居るだけでとても充実したひと時を味わえます。
そんな面白い話ができる人々の中でも、落語家の立川志の輔さんのあの表現力には、とにかく人間国宝というのはこういう事だ!と思わされずにはいられません。
まあ、まだ人間国宝にはなっておりませんがね。
しかし、この志の輔師匠、何度も申し上げて、しつこいようですが、とにかく随分と素晴らしい話し方をするのです。
この人の落語は劇場のような落語です。
表情や、間の取り方、動きの表現力が実に素晴らしいのですよ。
その、あまりの巧みさに多くの人が、一瞬も見逃してなるものかと、彼の話芸に引き込まれ、とにかくたくさん笑って満足して帰られているようです。
だから、彼のチケットも即完売で、なかなか見たくても見られないほどの大人気だそうで、これこそ世間からの評価も高いという証明でしょうね。
何せ、文句の付け所のない素晴らしい話し方をします。
 
だから、一般人の我々の中からも、せめて名人の技術には及ばずとも、楽しい話を身振り手振り駆使して、表情豊かに表現する方も一つの教養として捉えてもいいと思います。
このような人材が友人におりましたら、さぞかし面白いでしょうから、色々なところで人気者となるかと思います。
 

テクノロジーの飛躍的な発展の弊害として、外へ出かけることもなく、家に閉じこもり、脳も身体能力も退化しつつある現代人。

コミュニケーション能力までもが退化しつつある今こそ、落語にあるような話の技術と言うものが、より一層大事になっていくのではないかなと思います。
人と人との関わりというのは、確かに煩わしい側面も多々あります。
しかし、その煩わしさを超える楽しさを、誰か一人に限らず、みんながそれぞれ少しずつでも提供できるようなら、みんな、楽しい人との関わりを求めて外へ出かけていくのではないかなと、私はそんな気がしました。
 
ですから、皆さんも落語の表現力を参考に、その身一つで、他愛のないことを話すだけで、誰かを楽しませる方法を磨き、多くの人に必要とされる人材を目指しませんか?


誰にも必要とされないという心境こそが、最もその人の精神を病ませる元凶であり、悲観させ、自尊心を失わせることに繋がるのではないでしょうか。

そうならないためには、やはり魅力のある人間にならなくてはいけません。
是非、人としての幸せを求めて、共に頑張って行きましょう。

男女交際免許制度

恋愛感情は本当に危険な側面がある。

世の中には沢山の男と女がいます。
その中でも、比較的良いと思われる男女は限られており、現在もなお、全国各地で優良な男女の争奪戦が繰り広げられてますね。
相手に好かれて求められた人は、その人から見て優良な異性であると認められたのだから光栄でもあるし、有難く感じることもあるでしょう。
しかし、求めてきた相手が特に好きでないどころか、苦手なレベルの相手であったなら、その思いは決して有難いものではなく、それはむしろ恐怖でしかないということに、どれほどの人々が気付いてるんでしょうか?
かく言うこの私も、これに関する失敗経験が…。

恋というものは見事に人を狂わします。
相手の愛が、欲しくて欲しくて仕方なくて、どんな犠牲を払ってでも手に入れたいと、そういう気持ちになった経験がある人は割と多いのではないでしょうか。
好きだという気持ちは、基本的には悪いものではないというのは、確かにそうとも言えますが、この思いが客観的にも美化されるパターンと申しますのは、残酷なことにかなり限られているのです。

それは、そこそこに容姿が優れ、清潔感のある若い男女の場合のみです。
ハッキリと言わせてもらいますが、この場合以外の連中の恋煩いは、殆ど恐怖しか生みません。


考えてみてください。
キモい不潔な中年男が、清潔感のある若くて可愛い女の子に恋煩い。
これは美化するどころか、即座に警察に突き出すべきではないかと錯覚してしまうほど、恐ろしい光景です。

逆も然り。
ブスで年増な喪女が、清潔感のある若いイケメンに恋煩い。
こんな光景を美しいなあ、応援したいなあと思える方は、正常ではありません。

この例は極端な例ではありますが、恐ろしいことに割と珍しくない実例でもあります。
時にはストーカーへ発展し、凄まじい恐怖と悲劇を引き起こす、完全なる社会悪であり犯罪です。
社会悪や犯罪と言うのは可哀想ですが、現実は残酷なのです。
一部の方々の純愛は、警察が取り締まる必要があるのです。冗談ではなく、割とマジで。

全ての人が、幸せになれる世界じゃないんですよ。この世界は。
全ての人が、分相応な価値観を抱けるのならまだしも、世の中の価値観は基本的には共通しており、冒頭でも申した通り、良いとされる男女は限られてます。
その、良いとされる男女の中でのみ、争奪戦が繰り広げられているのなら、比較的平和な恋愛模様ではあるのですが、この優良男女の争奪戦にエントリーしようとする輩は、その限りではありません。

だから、ほうひんは考えてみました。

極論ではありますが、以前にも記事にした時に口にしましたが、男女交際は免許制にします。
免許にも階級制度を設け、レベルによって分相応の人々の中で争奪戦を行うようにするのです。
よりレベルの高い免許が欲しくば、自分を磨き上げ、試験に臨み、合格したら免許交付を認められるというものです。
もちろん、この提案には全国各地で沢山の不平不満が沸き起こるでしょう。
しかし、この提案は確実に支持されますよ。
求められる当事者である、良いとされる男女の方々のほとんどには。

AKBとかのアイドルも、キモいおっさんに好かれてウットリするわけがないでしょう。
金が欲しいから我慢して握手してるだけです。

ジャニーズも…以下略。


現代社会の心に対する考え方に危険信号。

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現代社会では、うつ病による問題がしばしば取り上げられているが…


うつ病や心のストレスによる不調。
それまでは普通に生きていた人が、度重なるストレスに打ちのめされ挫折し、立ち直れなくなる。
無気力になり、将来に悲観し、自身の存在価値すら疑ってしまい、命を絶つ人だっている。
社会に必要とされるであろう人物になりきれなかった人達は、どうすればいいのだろうか。


そもそも人は、感情で生きている。

このポイントを現代社会は見誤っている。
体は健康でも、心が不健康になったら動けない。その逆もまた同じ。
結果的に、心も体も両方が健康でなくては、人は健康的な毎日を送れないのである。
しかし、現代社会では心の病を軽視しすぎている。
体が健康なら動けないのはただの甘えだと言われてしまう。
「やる気がないなら辞めてしまえ、代わりはいくらでも居るんだ」と言って、そんな風に言われてしまったら、それまで働いてきたのに可哀想な気がする。
それまで苦労を共にして頑張ってきた仲間だろうに、そんな簡単に仲間を見捨ててしまうような会社にすら忠義を尽くせというのは、随分と虫のいい話のように思う。
どうしようもなく辛い時、親身になって話を聞いてくれる上司がどこの会社にも居てくれたら、鬱にならずにどれだけの人が救われただろうか。誰しもパワハラは辛いと思うよ。
社員は会社の宝だというポリシーの会社はもうどこにもないのだろうか。
心こそが人間の根本であり原動力となるのに、体さえ問題無ければ動くのだと思われては話にならない。
うつ病や心の病がこれほど問題視されているのに、現代社会は冷酷だ。

人は機械じゃない。心を無視して動ける生き物じゃない。

…ただ、これからの社会はオートメーション化がどんどん進むし、そういう所で働く機械は心なんて考慮しなくても、物理的な限界を迎えるまではとても従順に動く。
でも、今はまだ人間が働く時代だ。
機械相手の考え方になってしまうような時代にはして欲しくない。
確かに、将来的に人類は理屈を優先できる人工知能に支配されると思う。
元々、人間が人間らしく生きられるために、この社会が存在するのだというのなら、この先の人工知能支配の社会は利益という数字だけではなく、人の心のバロメーターも生真面目に追求できればいいのに。
どうせ働くのなら、誰しも楽しい職場に入りたいと思うのが当然のことだろう?
甘い考えかもしれないが、そこで過ごす上で心の充実さえあれば、そこから人は居なくならないし、ちゃんと真面目に動くし、仮に利益も数字としては少なくなっても、嫌々行って生み出す利益とは違った価値があると思う。
楽しかった思い出の共有が、信頼に繋がる。
何より人は、一人を寂しがる傾向がある。
理由がなくても誰かと会っていたい時もある。
仲間との信頼を実感しながら、共に困難を乗り越えようとすることこそ、人生に華を添えるドラマのような気がする。
お金なんて必要最低限あれば、後は楽しい仲間との楽しい時間だけで充分満たされるかもしれない。

だからこそ小コミュニティーが沢山必要だと思う。


だから理想的な職場がないのなら昭和の偉人達のように、一から作るしかない。
そして、気の合う仲間と共生の道を築いて、楽しく生きていけたら凄い。
これからの時代は、恐らく余計に心のつながりが希薄になるから、敢えてこれからは心のつながりを重要視していた昭和の偉人である松下幸之助本田宗一郎などに習い、再び家族のような会社経営が必要とされていくに違いない。
共に戦う仲間っていうものは、色んな心を満たすいいものだと思う。

心ない現代社会のブラック企業なんぞに、たった一度の自分の一生をくれてやる必要はない。
体と心の両方を大事にできる会社が、昭和の頃のように盛り上がっていってほしい。
それはきっとサークルのような楽しい雰囲気を持っているだろうから、他所からは楽しそうに見えるに違いない。
日本各地、そういう場所を作ることが多くの人の目標や願いになれば、この国の雰囲気は変わると思う。

みんなと共に助け合って生きていきたい。人を大事にしないブラック企業の世話にはならない。



下心のない優しさとは

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優しさというものは、色々な受け取り方がある。
その中でもモラル、一般常識というもので見れば、優しさに下心が絡んでいると良い評価に繋がらないらしい。

では下心のない優しさとは、厳密にどのようなものなのか?
……思いつかない。
下心のない優しさなんて、存在するのだろうか?
なぜ自分がそう思うかを説明するために下心についての個人的な範囲枠組みを説明してみる。

まず、行おうとしている優しさの中に目的や意味、利益がある場合、それは立派に下心を含んでいると思う。
直接優しさを受け取る相手に直接的な利益などがなくても、施す側に行う目的や意味が存在していれば、優しさは単純に自己満足達成の手段の一つに過ぎず、そこに人としての清らかさや道徳観念を交えて評価するのは、行為自体の本質を見抜くには相応しくない。

もちろん、こういう考え方が一定数の人たちに喜ばれないであろうことは、わかっている。

しかし、本質を見極めようとすることは重要で、優しさの裏側、目的や意味などを探るなんて道徳的にはよくないと言われても、心ない人々に騙されずに生きていくためには仕方なしに疑わなくてはいけない。
本質を理解し、表向きは無償のサービスの裏に隠れた落とし穴を見つけなくてはいけない。


それと優しさとは、目的や意味を含めることで力を増す。
愛する人の笑顔のためだったり、傷つき悲しむ人を癒して笑顔を取り戻してあげたり、自分の自己満足以上に誰かのためになるのなら、優しさというものには、みんなも大いに下心を加えるといい。
優しさに下心を加えれば加えるほどに自己満足は増えるし、多くの人の笑顔にもつながる。
ならば下心を肯定してあげようよ。
肯定した上でなら、そこまでいやらしいって事もないだろうに。
逆に優しさから下心を意図的に排除していくと、やる気が減るだろう。
例えば好きな異性に優しくするのには特に下心が強く働いているよね。

世間のイメージが言うほど悪い奴じゃないよ、下心って奴は。

ただ、一部の方々が無償の愛だの喚いて下心を嫌っているだけです。
個人的には無償の愛よりよほど下心の愛のほうが、世界平和に貢献すると思っているよ。

下心を備えた優しさ、大いに結構。

優しさには好きなだけ下心を加えて少しでも多くの幸せを作ろう。