学校では教えてくれない裏の価値観

日常に根ざした事柄を追求して、はっきりといわせてもらいます。

すげーモッタイナイと思う事

あらかじめ言っておくと、世の中には色んな嗜好があり、大多数が見て良いと思わないものにも需要があったりする。

しかし、今回はあくまで大多数の男からの意見として、言わせていただく。
タイトルの通り、すげーモッタイナイと思う事。
その対象は、ズバリ女性にだ。
 
世の中の女性の大半は、基本的に綺麗になりたいという願望を抱いて生きていると思う。
そんな思いは、お化粧に現れたり、洋服に現れたり、髪型に現れたり、アクセサリーに現れたり。
皆それぞれ、色んな知恵を凝らして、自己を演出しているのは素直に凄いなと思う。
しかし…しかし、そんな彼女らの努力の全てが報われているのかと言えば、大多数の男からの判断で言えば「NO」である。
そして早くも結論を言おう。
報われてない女性は、努力の優先順位を間違えてる。
 
この世の中で一体どんな女性がモテているのか?
そんなのテレビ見ればわかる。
雑誌見ればわかる。
インターネット見ればわかる。
 
太ってる人いる?
猫背の人いる?
顔の肉が厚い人いる?
…いないですよね?
 
太り気味の人は、まずダイエットが当たり前。
猫背の人は、まず姿勢矯正が必要。
顔の肉が厚い人は、まず表情筋の筋トレ。
 
これらのポイントを修正し終えてからでないと、化粧も洋服も髪型も効果を発揮しない。
極端な言い方をすれば「馬子にも衣装」という皮肉的ことわざのおっしゃる通り。
今更言わなくてもわかってるとは思うが、かわいい女の子はね、恐らく殆どがこのポイントをクリアしている。
 
痩せてる事が大前提。
猫背でない事が大前提。
顔の肉が厚くない事が大前提。
 
そして、これらは全て、正しく体を動かすだけで解消できる。
体を動かすことにお金は対して必要ない。
貧乏人でも大丈夫。
適切なテキストを用意するだけ。
飲むだけダイエットとかその他、妙なダイエットアイテムに大金払う人もたくさんいるが、成功した人は一人も知らない。だから断言する。
ムダ。
近道したいの?
一番の近道はね、毎日のワークをこなしていくことです。
大丈夫、ゴリマッチョにはなりません。無駄な心配です。
もちろん、トレーニングは辛いですよ。
でも、報われたいですよね?
沢山の男からすっげーモテたくありませんか?
もし、女性の人生が、男からの評価次第で決まってしまうというのなら、あなた方がすべき行動は、もう明確な答えが出ているじゃありませんか。
 
本当の綺麗を手に入れましょう。
 
実にシンプル。
かわいい女の子は無敵です。
どんな男も優しく接します。
優良物件も選び放題。
 
好きな人を振り向かせるには、テクニックが重要?押して引いて?
んな下らないことやめて、フィジカルトレーニングしましょうね。
 
どうせ、自分なんか痩せたところで、姿勢を直したところで、顔の肉がスッキリしたところで、かわいくなるわけないって思ってる人。
まだその姿見たことないでしょ?
見たことないのにもう結論出して、自分の可能性捨てちゃうんだ?
 
あーモッタイナイ。
 
 

次世代に何を残し、何を望む?

残念な事に、人々がバブルの頃に夢見た未来は幻だった。
どんな生き方でもなんとかなると思ってたのに、何もかもが良くなっていくと信じられていたのに、現実は酷だった。

そして今。
人々が思う未来とは、少しもワクワクするところがない。
宇宙開発の夢も消え、景気が回復する見込みもなく、念願の東京オリンピックもケチばかり付いて、少しも楽しみではない。
少子高齢化による経済の圧迫。
安月給で老人の世話をする働き盛りの人々。
親に寄生し続けて、自立できないニート
科学力だけは発展し続けてきた結果、多くの人々が仕事をなくし、一方では生活保護の費用は増える。
そんな社会保障制度や、年金など、働いてない人達を支える為には沢山のお金が必要なのに、それを支える若者は安月給。
それでも生きていく為には働かなくてはいけない。
そうして大変な仕事にもめげずに、頑張って働く人からは、容赦なく多くの税金をむしり取り、不平不満は次々と増え、貧富の差は広がるばかり。
若者は結婚をし、当たり前のように子供を設けるという事が、とても大変な時代となってしまった。
そんな今、我々は何をするべきなのか?
次世代に何を残さなくてはいけないのか?
久しぶりにブログを書いてみようと思う。
ただ、ほうひんは学者ではないので、あくまで一般の一意見としてご覧下さい。

まず、第一に移民政策について。
これに関しては、はじめに言っておくと危険すぎて絶対にやめたほうが良いと思っている。
それはなぜか?
理由は、これまでに移民を受け入れた国の歴史を見ればわかる。
更に、この国の国民性を考慮すると、どう考えても危険極まりない。

例えば、アメリカ。
まず最初に彼らは原住民を追いやった。
そして、アフリカから黒人を奴隷として拉致し、更に各国から多くの移民を受け入れ、強国を築いた。
結果としてイギリスよりも強い国となったが、貧富の差や、治安は決して良いとは言えない。

日本は移民などを一切行わずにこれまで続いてきた、歴史ある国である。
おかげで、この国の国民性は他国に比べ穏やかで、教育や道徳も備え、結果として治安も良く、他国のような緊張感がない。
自衛隊のおかげで他国からの侵略にも対抗できるこの国は、平和を求める人にとっては、かなり良い国であると思う。
実際、日本国籍が欲しい外国人はかなり多いようである。
そんな日本がもし移民を受け入れたら?
各地で性犯罪、殺人、強盗、暴行は日常茶飯事。警察も死ぬ覚悟で仕事をしなくてはいけない。
安い賃金で働く外人に職を奪われ、気の弱い日本人はどんどん付け込まれて、いずれは国を奪われるだろう。
どう考えても、移民は危険である。

となると、最も重視すべきは少子高齢化対策。
何としても子供を増やさなければいけない。
子供がなければ未来はない。
ただ、そんなことは誰しもよくわかってることだ。
問題はお金がないという、その一点に尽きる。

しかし、今はただ産めば良いという時代ではない。
多くの場合、優れた子供しか求められていない。
劣った子供は将来的に不幸を招く可能性が高いからだ。
だから優れた子供を持つ為には、親となる存在もそこそこに容姿が良く、学習力のある男女であるというのは最低条件である。
単純に経済的な問題だけではない、この少子高齢化対策というものは非常に難しい案件である。

となると今、我々一般人がやることは何かというと、まずは良い結婚相手候補を探しておくべし。
その為にも自分を磨き、高めましょう。
そしてめでたく、少子高齢化対策に大きなテコ入れがありましたら、ポンポン産んでしまいましょう。
まずはそこからです。
そして、立派な大人に育てましょう。

まあ、難しいでしょうがね。

これから先の未来を担う子供が清々しく朝日を浴びて毎日を過ごしていけるよう、頑張りましょう。

友達が必ずしも必要でない現代

昔は友達の存在は、人生に欠かせないものだという考えが主流だった。
友達は人生において宝のような存在で、困った時には助け合うべき存在である、と。
確かに学生時代、まだ仕事が生活のメインではない時代には、友達の存在は大きかった。
楽しみが少なかった頃は、一人ではつまらないという理由で友達を求めたが、今の時代、もう一人でも存分に楽しめるようになった。
むしろ、一人の方が気遣いなく伸び伸びと過ごせるし、世の中サービス業が多岐にわたる分、もはや友達とは昔ほど必要ではない存在になりつつある。
必要な時に必要な分だけ他人を求められるのなら、きっと便利な存在として都合が良い部分だけで済むが、相手も生きている人間であるから、日常の中で自然と会うような人でない限り、予定を合わせるにも前々からアポイントを取っておく必要があるし、長い時間を共に過ごすと、悪い部分も見えてくる。
そして、楽しい時間が実現しないと、どうにも落ち着かなかったりする。
だから、どうしてなのか、ただ遊ぶだけでもまるでデートかのようにプラン立てしないと、つまらない事にもなり得るし、無駄な時間を過ごした気にさえなってしまうのだから、難しい所だ。
かといって、助け合うにも、お互い大人である。それほど何度も助けてほしいような事はない。
時々、助けてほしくなる事があっても、それまで随分とご無沙汰していたのに、久しぶりの連絡が「手伝って下さい」では虫が良すぎるだろう。なかなか頼みにくいものである。

そして、四六時中友達と一緒に居ると、自立出来ていない頼りない人間ではないかと疑われる傾向もある。
時にはホモ疑惑、またはレズ疑惑にさえ発展する。

なぜ、こんなにも友達という関係が構築しにくい社会になってしまったのだろうか。
仮に一方が素直になって、寂しいよ暇だよ遊ぼうよと言っても、相手はそれを面倒に感じてしまう場合がある。
素直になるのは、一つの美徳である筈なのに、いつの間にか世の中は、素直な気持ちを抱く事で、相手に距離を置かれる可能性があるという時代。
ネットワーク社会は、多くの情報を民衆に与えたと同時に、人と人の精神的繋がりの構築過程を破壊してしまったと思う。

だから、こんな時代にも、あなたに親友がいるのなら、素晴らしいことだ。
きっと誠実な人に違いない。
その縁が末長く続くことを祈る。

どんな文明も滅ぶ運命にあるのだろうか。

文明は常に進み続けている。確実に便利な社会が実現している。その事は誰もが感じているはず。
しかし、意図せずも、文明発展が同時に人と人との繋がりを希薄にしてしまった。
わざわざ頼んでまで人の手を借りずとも、ネットワークの普及により、あらゆるサービスに頼れば情報も手に入るし、人の手を借りずともそれなりに生きていけるから、面倒な付き合いごとにも関わらなくて済む。
しかし、結果として助け合わなくなった現代人には、もはや友達すら信じることすらも難しくなった。
なぜなら、不自然に親切であると逆に疑われる世の中だからだ。
少なくとも日本人では、ほとんどの人が、本当に全ての心を許せる隣人など、誰一人いないのかもしれない。

仮に同性と仲良くなりすぎると、同性愛を疑われるし、もはや社会的には、心許せる隣人とは恋人や伴侶以外には実現できないのか。
核家族化の行き着く果ては、ほとんどが核個人化、上手くすれば核夫婦化、更に良くて、ようやく再び核家族になれるのか。
それならば、尚のこと恋人や伴侶の相手選びには妥協できない。多くの人が、無意識にもそれを感じているからこその未婚率増加傾向なのか。
そんな現代でも、なんとか幸せな結婚が出来た人は多くないだろうから、素直に祝福したい。
ただ、これからの子供は今よりも更に選択肢の少ない中から伴侶探しを行わなければならないから、やはり今後、人口増加傾向に進むようには見えない。
経済的にもいきなり好転する可能性は考えにくい。

そして、現在の支配システムは盤石だ。社会構造、支配層の大きな変化はありえない。
もう二度と田中角栄のような、低学歴の覇者は現れないだろう。
確実に、定められたレールの上を進んだ者にしか、成功は与えられない。
江戸時代の士農工商ほどではないが、高学歴の子は高学歴、低学歴の子は低学歴。生まれた時の格差から抜け出す事は難しい。

つまらない人間の多い、つまらない時代になった。

便利さや合理化を進め、テクノロジーの進歩、死亡率の低下、あらゆる事が進歩していってるのは事実なのに、人々の幸福度や満足度は一向に上がる気配を見せない。
将来に対する不安しか見えていない。
めでたく結婚し、経済的な不安もない中で出産できたとしても、その子供の未来がどうなるかなんてわかりっこない。
もしかしたらその未来、子供は生まれてきたくなんかなかったと大きくなってから思うかもしれない。
親としては、避けたいと思うべき未来だろう。
まあ、いつの時代にも、勝ち組負け組はあるものなんだが。

全ての人が幸せになれる世界じゃないのなら、子供を産む責任は余計に大きい。
自分の人生の彩りを増やすために、子供を産むのか、盲目的に子供の未来を信じて産むのか。
どちらにせよ、未来が明るいとは言い難い。

いっそのこと、どんな境遇にあるような人も、テクノロジーの力で新開発したドラッグで、いつでもどこでも満足感の得られる状態を作れるようにすればいい。
そうすれば、この世のすべての人が、心にゆとりを持つ事が出来、他者に優しくできるだろう。
そして、その新薬はきっと世界を支配する。
ただ、もはやそれは人が人らしくない薄気味悪い世界であろうと思う。
…いや、現在、既に充分薄気味悪い世界なのかもしれない。

現状を当たり前と捉え、漫然と生き、疑問を持たず、それに気づいていないだけなのかもしれない。

そして、文明は発展とともに着実に衰退への道を進みゆく。

せめて、人類が最後の時まで夢と希望を見続けられたら幸いに思う。

差別問題とは弱肉強食世界の都合上の建前に過ぎない。

面白い質問をして頂きましたので、久しぶりに記事を書きました。


向上心、それは少しでも今の自分より良くなりたいと願う気持ち。そして同時に、他の誰かよりも良くなりたいという気持ちでもあります。

多くの場合、向上心は自尊心から来ており、自尊心は自己の存在を肯定する上で欠かせない気持ちだと考えます。
これを無くした人間はきっと無気力になるだろうし、自分の事を好きではない状態になると思います。
そして、自分を大事にしようという気持ちすら、薄れていくのではないかと思います。
だから、人間は生き物としてより良く生存するために、自尊心を持つことが必要だったのかなと思います。

群れを作って生きる動物も、ボスと呼ばれる個体には、メンツやプライドがあるように見えます。
決して、弱みを見せないで、堂々として、より優れた存在であることを周りに示している。
だから、群れを作るタイプの動物として分類すれば、人間も同じですので、この人間社会という大きな群れの中で、より良い生き方をする為に他者より優れた存在になりたいと思うのは、本能としては当然の事だと考えますよね。

なので、向上心の根底には差別的感情が存在しており、引き離して捉えることは不可能かなと思います。

例えば小コミュニティーを求める感情にも、差別的な意味が含まれます。人を選り好みして仲良しとだけ助け合いましょうというものですからね。

それと、差別という概念については、褒められるとか褒められないだとか、そういう見方だけでは本質が見えないのでは?と私は考えます。

数ある種類の中の動物の一つとしての我々人類。
食物連鎖の頂点に位置するということは、そもそもが、奪い続けた生存競争の結果。
そして、人間社会の中だけでも、より良く生きる為に生存競争を行い、今日も何かを犠牲にしては見て見ぬ振りをしています。
まあ、もちろん他の動物も、食べる為に別の命を奪いますので、人間だけが悪であるとは言い切れません。
ただ、現実は平等に、力無き者に甘くない、それだけのことです。

なので、生き物として、生きるか死ぬか、欲を満たせるかどうかが、本能の中の根底にある以上、人の中に存在する善の心なんてご都合主義の幻のようなものです。

心のゆとりを失えば、人は理性を失い、幾らでも狂える動物ですからね。

しかし、善と悪という概念が普遍的に存在し続けている人間社会では、モラルという都合上、善を装い悪を隠し、本音ではなく建前でのみ言葉を語る、それが割と当たり前になってます。
なので、基本的に綺麗事なんて建前です。
本物の善人なんてフィクションでしか存在しません。

自分を大事にしようという気持ちが、差別を生み、派閥を作り、戦いに発展するのであって、この現象も、群れを作るタイプの生き物としては、割と想定内の動きのように見えます。

ただ、我々は知性を持つ人間ですから、その知性を駆使して、これまでにも色んな人々がより良い暮らしを模索し続けてきました。
現代でもその例に漏れず、左翼的な一部の人は、みんながみんな幸せになれるような理想を追いかける傾向があります。
僕も昔は考えたこともありましたが、みんながみんな幸せになるというのは、どうやってもあり得ることのない状況であるとわかりました。
人間はいつだって、自分よりも不遇な環境にある人を見つけたり、自分より能力の低い存在が居ることを認識しなくては、優越感を得られず、特別感や自尊心も保てないからです。
それに、幸せとは、不幸せという概念があってようやく認識できるし、成り立つ感覚ですからね。
全ての人類から、不幸せがなくなる世の中とは、割と怖い雰囲気の世界かもしれません。

支配者の綺麗事だけに踊らされることなく、この社会における本音と建前を認識した上で、情報を得ては考える。
それがこの現代における、騙されない生き方の一つなのかもしれない。

でも、知的生命体である人間も、頭は良いけど基本的に遺伝子別に本能に従う動物です。その本能の個体差が性格だとしたら、性格と感情は同義語なのかな?

ふと、思い出したのは、坂口安吾堕落論。一瞬はフィクションのような生き方に挑戦しようとしても、人は堕落するのが当たり前。とても的を得ているなあと納得しました。

批判の陰口は連帯感を育むし、盛り上がる。

まあ、いきなりこんなタイトルでね。気分を悪くする人もいるかもしれませんが、僕のこれまでの経験上、批判ネタの陰口ほど、共感できて、よく盛り上がるネタは他には中々無いんですよね。
ただし、道理も何もない批判ネタ以外の悪口は下衆のやることです。
ただの悪口に共感できる人はあまりいないし、不快に感じると思います。
共通の被害者の会というスタンスで、あくまで正しさを語る側で盛り上がるのが好ましいですね。
辛かったね、大変だったね、と話し合うことで友情を育み、対象の批判ネタで盛り上がるのです。

ということで、まあ、今回は悪口の中でも、批判ネタを中心に見ていきます。

そりゃあ、言われる側としては凄い気分悪いでしょうね。
でも、他人を不快にさせた事実と、改善するべき点があるのだと思い知らされる意味では、一歩成長するチャンスでもあります。
だって、批判ネタはほとんどの第三者の立場から見ても、確かに批判されるような内容ですから。
例を挙げて、説明しますと…

例えば、まず耳が痛いのは、体臭の事。
体臭ってのは自分ではわかりにくい点もあるので、自分の体臭に気が付かぬまま表へ繰り出し、世の中色々なところで被害者をいたずらに増やすものです。
おかげで、多くの人が共感して盛り上がることができる定番の批判ネタの一つです。
何せ個人差はあれど、クサイ匂いというものは殆どの人にとって不快なことなのです。
嫌でしょ?すぐ近くでおならされたら。
そのくらい我慢しろよと思う人もいるかもしれませんが、そもそもまず、人が嫌がることは控えようと気遣う気持ちはないのかな?
…まあ誰しも共感しあえる悪臭の批判ネタは鉄板です。

日本の現代人はほとんどの方々が、自分がされて嫌だと思う事は人にはやるまいと、他人に気を遣って生きており、その状態が正常とされるわけで、他人を気遣って生きられない人は、他人に多くの不快を与えていることでしょうから、批判されて当然だと考えます。
そして、不快にさせられた人々はそのネタを使って共感をし、友情を育むのです。
同時に対象を無意識のうちに見下して、自分の存在は対象の人物より素晴らしいと感じ、気分が良くなるという面もあります。
批判ネタとは、これほどに良い部分があるので、我々人類にとっては今後も無くなる事はありませんし、とにかく批判ネタは盛り上がるのです。
悪口や陰口は良くない!と頭から決めつけて考えている方々もいらっしゃるかと思いますが、批判ネタに関しては、受けた不快を清算するために行うのだから許してあげてくれませんか?
清算できるどころか、笑えるし、共感できるし、自己を肯定して気分が良くなれる側面があるので、結構美味しいネタなんです。
文句言われるのが嫌なら、原因を改善するかコミュニティーを離脱するか、そのどちらかが、最も効率的な対応です。
それに、批判を言っている以上、自分を棚上げして批判してもカッコ悪いですから、戒めになっている人も沢山いるでしょう。
だから批判を言い合う事が、他人に気遣える人間になる為の勉強会ということですね。
ただし、批判ネタの勉強会は陰口なので、本人には話しませんから、知らないところで勉強会が行われているだけで、肝心の本人は勉強できません。
万が一批判の内容を知り得て、納得できる内容ならば、なんとか怒りを鎮めて、反省し、勉強しましょう。

ちなみに、人間がコミュニティーで生きる以上は、コミュニティー内での批判は絶えません。
コミュニティーの一つ一つに必ず誰か一人は批判を受ける犠牲者が必要です。
犠牲者になりたくなければ、批判の原因を改善しましょう。
そうすると今度は違う人が批判の犠牲者になります。そしてその人も改善したら今度はまた違う誰かが犠牲者です。
桃鉄みたいですね、必ず誰かには貧乏神というあれね。
最低一人は犠牲者です。
まあ、批判ネタを言う側も元々は犠牲者だったりするんですがね。

話はずれましたが、まとめますと、共通の被害報告会と、その批判ネタの陰口は楽しいし、成長する為の勉強会だし、友情を育みますよと、そういうことです。
しかし、言われた本人がブチ切れて襲ってくるというパターンもありますから、ご利用は計画的に。

落語に学ぶ、話芸のチカラ。

現代の家の中には、沢山の娯楽がある。

娯楽というものは、人類にとっては、とても大事なものであって、人々は衣食住という生死に関わる問題を解決できましたら、その次は決まって、その余力を娯楽に費やそうとします。
しかし、昔の日本には、自宅で楽しめるような娯楽などは、ネットワークなどが普及している、今のそれほど多くはありませんでした。

ですから、インドアの娯楽に飽きた方々は、面白くもない自宅になぞ閉じ籠らず、何か楽しみを求めて外へ出かけます。
しかし、初めて訪れるような新たな場所に行くというのは、どこか心細いものです。
それでは誰か友人を連れて行きますか?
もちろん、選べるのなら、なるべく共に過ごして愉快な人を連れて行きましょう。
そうして、新しい体験をし、何かと体を動かし、疲れたりはしましたが、良くも悪くも思い出作りになりましたね。
アウトドアも、めでたしめでたし。


インドア派、要注意。

技術の進歩と便利化する社会とともに、忍び寄る無痛化の闇。

しかし、先ほども少々触れましたが、現代はネットワークやパーソナルコンピューター、スマートフォンがとても普及し、家に居ても沢山の娯楽がありふれておりますので、外に出掛けなくてもそれなりに楽しめるようになりました。
その影響でしょうが、昔と今の若者たちの関わり方が、随分と変わりつつある感じが致します。
実際に会って話さなくとも、スマートフォンで連絡が取れるので、全国の若者に限らず、大人たちの間でも、中身の薄い文字のコミュニケーションしか行われず、目や口や手振りや感情を駆使する、対人のコミュニケーション能力が退化してしまっている人々が、多いように思います。
だから私も、出来ることならスマートフォンより愉快で面白い人間となれればいいなと思います。
 

何せ、面白い話ができるというのは素晴らしいことです。

話が面白いと、一緒に居るだけでとても充実したひと時を味わえます。
そんな面白い話ができる人々の中でも、落語家の立川志の輔さんのあの表現力には、とにかく人間国宝というのはこういう事だ!と思わされずにはいられません。
まあ、まだ人間国宝にはなっておりませんがね。
しかし、この志の輔師匠、何度も申し上げて、しつこいようですが、とにかく随分と素晴らしい話し方をするのです。
この人の落語は劇場のような落語です。
表情や、間の取り方、動きの表現力が実に素晴らしいのですよ。
その、あまりの巧みさに多くの人が、一瞬も見逃してなるものかと、彼の話芸に引き込まれ、とにかくたくさん笑って満足して帰られているようです。
だから、彼のチケットも即完売で、なかなか見たくても見られないほどの大人気だそうで、これこそ世間からの評価も高いという証明でしょうね。
何せ、文句の付け所のない素晴らしい話し方をします。
 
だから、一般人の我々の中からも、せめて名人の技術には及ばずとも、楽しい話を身振り手振り駆使して、表情豊かに表現する方も一つの教養として捉えてもいいと思います。
このような人材が友人におりましたら、さぞかし面白いでしょうから、色々なところで人気者となるかと思います。
 

テクノロジーの飛躍的な発展の弊害として、外へ出かけることもなく、家に閉じこもり、脳も身体能力も退化しつつある現代人。

コミュニケーション能力までもが退化しつつある今こそ、落語にあるような話の技術と言うものが、より一層大事になっていくのではないかなと思います。
人と人との関わりというのは、確かに煩わしい側面も多々あります。
しかし、その煩わしさを超える楽しさを、誰か一人に限らず、みんながそれぞれ少しずつでも提供できるようなら、みんな、楽しい人との関わりを求めて外へ出かけていくのではないかなと、私はそんな気がしました。
 
ですから、皆さんも落語の表現力を参考に、その身一つで、他愛のないことを話すだけで、誰かを楽しませる方法を磨き、多くの人に必要とされる人材を目指しませんか?


誰にも必要とされないという心境こそが、最もその人の精神を病ませる元凶であり、悲観させ、自尊心を失わせることに繋がるのではないでしょうか。

そうならないためには、やはり魅力のある人間にならなくてはいけません。
是非、人としての幸せを求めて、共に頑張って行きましょう。