学校では教えてくれない裏の価値観

日常に根ざした事柄を追求して、はっきりといわせてもらいます。

理想の男女関係と、現実のズレ。

誰しも、とある異性に心惹かれ、その相手を次第に強く追い求めるようになってしまうのは、どうして?
これが、恋心…?
結論として先に言ってしまうと、その恋心というものの原動力は、包み隠さずにハッキリというが、「性欲」以外の何物でもない。
その手の学者さんも明言している。「生物学的には純愛は無い、男女にとって重要なのはセックスだ」と。(元々純愛というものは定義が曖昧なんだが、今回は性欲の結びつかない純潔的愛情とする)

 

まず、初めて出会った異性で気になるのは見た目という部分、その見た目というものも、ある程度はみんな共通項目があるが、好みは人それぞれである。
そして、その人の好みという琴線に触れる異性の存在を目の前にした時に沸き起こる欲望とは、恐らく男女共通「性欲」以外の何物でもない。
ある人の容姿に特別な魅力を感じたのなら、それは理屈で表すことのできない本能的なもの、性欲だろう。
ハッキリといえば、琴線に触れぬ相手とは、異性としての評価が出来ない相手のことであると思う。
ただ、だからといってそんな人との恋愛が全くありえないというわけじゃない。趣味が合ったり、話が合ったりで、仲良くなることがあるかもしれない。1日のうちに、その人のことを考える時間が長くなると、人は恋に落ちやすいという説もある。
だから、そうして仲良くしているうちに、かわいいと感じたり、抱きしめたいと思う気持ちが芽生えたのなら、結果として性欲が抱ける異性となりえる事もある。
ただ、容姿をスルーした上での、中身を気に入って異性として評価した場合、もしも中身に疑問を抱いてしまうと、元々容姿から感じる性欲のフォローがないので、よほど相性が良かったり、強い絆や思い出が無ければ、余計に悪く見え、とたんに崩れてしまう。
例えば、とある2人は、お互い性欲を感じて相思相愛至り、恋人同士となった。
しかし、そのどちらかが、いつの間にか著しく容姿を悪くしてしまい、一方が性欲を感じなくなった時、些細なきっかけで別れの時が訪れる可能性が上がる。
相手に性欲を抱けなくなると、もうどうにもならない。

恋心は次第に冷めていき、あるいはその気持ちが違う人へと向かってしまうこともあるだろう。

だから、容姿と性欲はどんなに歳をとろうとも、男女の関係を望む限りずっと重要なポイントである。

あなたが男女関係の理想を追い求めているのなら、かなり重く受け止めるべきだろう。

 

 ただ、非常に残念なことに、実はどちらにしても同じ相手に永遠に性欲を抱き続けるのは不可能なことであって、脳内から出る恋愛ホルモンもある期間を過ぎると分泌が止まる。

どんなに世界一素晴らしい相手だと思って付き合いを始めても、そのドキドキはいつか必ず消えてしまう。
それが一般的に言うカップルの倦怠期というものだ。
こればかりは、本人がいくら頑張ろうと思ったところで、恋愛ホルモンは出てこない。
この倦怠期を乗り越える方法はあるのだろうか?

答えは「YES」

しかし、これまた残念なことに、この倦怠期を乗り越える最も効果的な方法は、一度距離を置くということ。
全く会わず、連絡も取らない期間を設けると、脳内のカウントがリセットされて、不思議なことに再び会った時に恋愛ホルモンがしっかり出てくる。
だから、例えば冷め切ってしまった夫婦も、単身赴任などで距離を置くと再び恋愛ホルモンが出て性欲が沸き起こるのだという。ただそれはあくまで、再びお互いの容姿に問題なく性欲を抱けるかどうかという前提もあるのだが…。
恋愛初期は、とにかく一緒にいることがとても幸せで、濃密な時間を過ごすことができる。
ただ、あまりにも同じ時間を過ごしすぎると、倦怠期を迎えるのも早いらしい。
だから、ドキドキする気持ちを取り戻したいと思うなら、必要に応じてではあるが、会わない期間を設けることも残念なことに必要となる。
倦怠期の乗り越え方には色々な方法があれども、全く会わずに脳内リセットをすること以上に効果的な方法はないらしい。

しかし、好き合って交際を始めた二人にとって、いくらやむを得ずとはいえ、音信不通なんてどう考えても進んでやりたいとは思えないことだし、お互いが同時に倦怠期であったならまだしも、片方のみだと辛いに決まっている。

それでもなんとかカップル同士であれば可能ではあることだが、いざ結婚したら、同じ家で暮らすことが当たり前となる。

その状況でどうして、距離を置くことができるのか?
この場合においては、倦怠期となることもある程度仕方がない。なぜなら、夫婦は子供を育てなければならない責任があるからだ。(もちろん、子供がいない夫婦は例外)
恋愛初期のドキドキはある程度諦め、良い家族になる必要が出てくる。
好き合って、一生側に居たいと強く願い、結果として結婚に至り、子供を産んで、その恋人同士は終わりを迎え、家族となる。
家族とはなんなのだろう?子供は喜ばしいが、どんなに愛し合った恋人同士もいつか終わるなんて、寂しい話だ。

もちろん、暖かい家族愛や、落ち着く雰囲気があれば、何もかも悪いというどころか、立派な幸せの形だ。

しかし、ドキドキしている時に感じる幸せは、やはりすごい。

人間の本能的な問題で仕方がないとはいえ、なんとか良いとこどり出来ないものだろうか?

タイトル通り、理想の男女関係と現実のズレである。

 

家族になってからの問題のほうがより深刻だ。
どんな方法が、夫婦を再び恋人同士へと復活させるのか。
倦怠期の完全リセットの為には、会うことはもちろん、連絡もしないのが重要だが、夫婦においては不可能なことだ。
その度に離婚して再婚するなんて、とても出来ない。

今現在は効果的な方法がわからない。
しかし、その問題を強く認識した上で、夫婦で相談しあって生きていければ、何もせず成り行きに任せるよりは、うまくいくのかもしれない。

それと、もし一度は別れてしまうことがあっても、再び二人が会い、再び恋に落ちるような事があるなら、その時はきっと以前よりも、もっと強い絆で結ばれるに違いない。

再び結びつく事で、お互いの必要性と唯一無二を再確認するのだから。

最終的には、性欲よりも思い出と絆、家族愛が勝るのだろう。

 

最後にもう一度
「純愛は無い、あるのは如何にその人とセックスしたいかという気持ち」
そこが男女の原点。
それを知った上で、理想を追い求めたい。

声も顔も知らないけど、みなさんヤッホー。

今時、他人に興味を抱く人が少ないということは、少なからずみなさんもわかっていると思う。
だって、人というものは時には面倒なこともあるからね。もっとお手軽で、それでいてもっと面白いものが世の中には沢山あるから。
でも、それなのに人はわがままだ。
他人には興味がないのに、自分の事を知ってもらいたいという気持ちは誰しもそれなりにはあるんだから。
そして、幾つになっても自分のことを賞賛されたがってる。
自己の肯定を常に自分以外の他人からも求めてる。
どうしようもない、生きてる限りずっとわがままだ。
でも、そんなわがままで自己主張が強い人間が書くブログは、案外見る人も多い。
とてもありがたいことに、このブログを見てくれる人もちゃんといる。
そして、今もこうして、自らの気持ちをここに書き込む自分自身、見てくれる人がいるからこそのモチベーション。
自分が生まれ持って今まで育んできたこの性格は、良くも悪くも自己主張が尽きないから、きっと生きてる限り、あらゆることをここに書き込む。
それが、この世界に生きる誰かの共感を誘うなら、とても幸いに思う。
 
今までにも、たくさんの偉そうなことを考えては、ここに書き込み続けた。
自分は理想を思い描くことが好きだ。
それは決して特別なことではない。大昔から多くの人間が考え続けてきたこと。
その結果としての今日がある。
そして、これから先の未来がある。
 
ただ、ここで何を思い、何を提案しようとも、それが世の中に与える影響はほとんど無いに等しい。
それでも、意味はあるのか?
望みは叶うのか?
理想は少しでも自分に近づくのか?
 
意味は、ある。
望みは叶わないかもしれない。
理想はきっと少しでも近づける。
 
自分は生きてる限り、自己満足を追い求める。
この飽食の時代、慢性的に生きるか死ぬかの瀬戸際に瀕したことがない我々日本人は、自己満足達成こそが人生の意義。
今日も、自己満足を追い求めてここに書き込む。
 
「見てください、みなさん。
今、僕はこの世界に、確かに生きていて、ここに書き込み、皆さんへ自己主張します。
インターネットの中の、わずかな文章の羅列。
声も姿もわかりません。
ですが、確かに生きて、ここに存在しています。ヤッホー」
 
わがまま自分勝手、すみません。
でも、これからもこのブログを続けます。
少しでも、誰かの共感を誘うなら、とても幸いに感じます。