下心のない優しさとは
優しさというものは、色々な受け取り方がある。
その中でもモラル、一般常識というもので見れば、優しさに下心が絡んでいると良い評価に繋がらないらしい。
では下心のない優しさとは、厳密にどのようなものなのか?
……思いつかない。
下心のない優しさなんて、存在するのだろうか?なぜ自分がそう思うかを説明するために下心についての個人的な範囲枠組みを説明してみる。
まず、行おうとしている優しさの中に目的や意味、利益がある場合、それは立派に下心を含んでいると思う。
直接優しさを受け取る相手に直接的な利益などがなくても、施す側に行う目的や意味が存在していれば、優しさは単純に自己満足達成の手段の一つに過ぎず、そこに人としての清らかさや道徳観念を交えて評価するのは、行為自体の本質を見抜くには相応しくない。
もちろん、こういう考え方が一定数の人たちに喜ばれないであろうことは、わかっている。
しかし、本質を見極めようとすることは重要で、優しさの裏側、目的や意味などを探るなんて道徳的にはよくないと言われても、心ない人々に騙されずに生きていくためには仕方なしに疑わなくてはいけない。
本質を理解し、表向きは無償のサービスの裏に隠れた落とし穴を見つけなくてはいけない。
それと優しさとは、目的や意味を含めることで力を増す。
愛する人の笑顔のためだったり、傷つき悲しむ人を癒して笑顔を取り戻してあげたり、自分の自己満足以上に誰かのためになるのなら、優しさというものには、みんなも大いに下心を加えるといい。
優しさに下心を加えれば加えるほどに自己満足は増えるし、多くの人の笑顔にもつながる。
ならば下心を肯定してあげようよ。
肯定した上でなら、そこまでいやらしいって事もないだろうに。
逆に優しさから下心を意図的に排除していくと、やる気が減るだろう。
例えば好きな異性に優しくするのには特に下心が強く働いているよね。
世間のイメージが言うほど悪い奴じゃないよ、下心って奴は。
ただ、一部の方々が無償の愛だの喚いて下心を嫌っているだけです。
個人的には無償の愛よりよほど下心の愛のほうが、世界平和に貢献すると思っているよ。
下心を備えた優しさ、大いに結構。
優しさには好きなだけ下心を加えて少しでも多くの幸せを作ろう。