学校では教えてくれない裏の価値観

日常に根ざした事柄を追求して、はっきりといわせてもらいます。

差別問題とは弱肉強食世界の都合上の建前に過ぎない。

面白い質問をして頂きましたので、久しぶりに記事を書きました。


向上心、それは少しでも今の自分より良くなりたいと願う気持ち。そして同時に、他の誰かよりも良くなりたいという気持ちでもあります。

多くの場合、向上心は自尊心から来ており、自尊心は自己の存在を肯定する上で欠かせない気持ちだと考えます。
これを無くした人間はきっと無気力になるだろうし、自分の事を好きではない状態になると思います。
そして、自分を大事にしようという気持ちすら、薄れていくのではないかと思います。
だから、人間は生き物としてより良く生存するために、自尊心を持つことが必要だったのかなと思います。

群れを作って生きる動物も、ボスと呼ばれる個体には、メンツやプライドがあるように見えます。
決して、弱みを見せないで、堂々として、より優れた存在であることを周りに示している。
だから、群れを作るタイプの動物として分類すれば、人間も同じですので、この人間社会という大きな群れの中で、より良い生き方をする為に他者より優れた存在になりたいと思うのは、本能としては当然の事だと考えますよね。

なので、向上心の根底には差別的感情が存在しており、引き離して捉えることは不可能かなと思います。

例えば小コミュニティーを求める感情にも、差別的な意味が含まれます。人を選り好みして仲良しとだけ助け合いましょうというものですからね。

それと、差別という概念については、褒められるとか褒められないだとか、そういう見方だけでは本質が見えないのでは?と私は考えます。

数ある種類の中の動物の一つとしての我々人類。
食物連鎖の頂点に位置するということは、そもそもが、奪い続けた生存競争の結果。
そして、人間社会の中だけでも、より良く生きる為に生存競争を行い、今日も何かを犠牲にしては見て見ぬ振りをしています。
まあ、もちろん他の動物も、食べる為に別の命を奪いますので、人間だけが悪であるとは言い切れません。
ただ、現実は平等に、力無き者に甘くない、それだけのことです。

なので、生き物として、生きるか死ぬか、欲を満たせるかどうかが、本能の中の根底にある以上、人の中に存在する善の心なんてご都合主義の幻のようなものです。

心のゆとりを失えば、人は理性を失い、幾らでも狂える動物ですからね。

しかし、善と悪という概念が普遍的に存在し続けている人間社会では、モラルという都合上、善を装い悪を隠し、本音ではなく建前でのみ言葉を語る、それが割と当たり前になってます。
なので、基本的に綺麗事なんて建前です。
本物の善人なんてフィクションでしか存在しません。

自分を大事にしようという気持ちが、差別を生み、派閥を作り、戦いに発展するのであって、この現象も、群れを作るタイプの生き物としては、割と想定内の動きのように見えます。

ただ、我々は知性を持つ人間ですから、その知性を駆使して、これまでにも色んな人々がより良い暮らしを模索し続けてきました。
現代でもその例に漏れず、左翼的な一部の人は、みんながみんな幸せになれるような理想を追いかける傾向があります。
僕も昔は考えたこともありましたが、みんながみんな幸せになるというのは、どうやってもあり得ることのない状況であるとわかりました。
人間はいつだって、自分よりも不遇な環境にある人を見つけたり、自分より能力の低い存在が居ることを認識しなくては、優越感を得られず、特別感や自尊心も保てないからです。
それに、幸せとは、不幸せという概念があってようやく認識できるし、成り立つ感覚ですからね。
全ての人類から、不幸せがなくなる世の中とは、割と怖い雰囲気の世界かもしれません。

支配者の綺麗事だけに踊らされることなく、この社会における本音と建前を認識した上で、情報を得ては考える。
それがこの現代における、騙されない生き方の一つなのかもしれない。

でも、知的生命体である人間も、頭は良いけど基本的に遺伝子別に本能に従う動物です。その本能の個体差が性格だとしたら、性格と感情は同義語なのかな?

ふと、思い出したのは、坂口安吾堕落論。一瞬はフィクションのような生き方に挑戦しようとしても、人は堕落するのが当たり前。とても的を得ているなあと納得しました。