学校では教えてくれない裏の価値観

日常に根ざした事柄を追求して、はっきりといわせてもらいます。

理想の職場作り

人間関係が希薄になりつつあるご時世。

人はいつだって一人では生きられないし、できれば誰かと繋がっていたい。
話し合うことも笑い合うこともなく過ごす日々では、寂しさを感じてしまう。
ならば自ら行動して人に会いに行くのか?それも何だかんだ億劫だったりする。
だからこそ、理由もなく当たり前のように共に過ごせる相手が重要だ。
それは、家族かもしれない。恋人かもしれない。同僚かもしれない。

とにかく、一緒にいることが当たり前の存在。

人生は一度きり、その長い人生の中、少しでも笑って過ごす時間を増やしたいなら、いい人たちに囲まれて過ごすこと。
だから、現代社会を生きる僕らにとって、職場選びはとても大事だ。

項羽と劉邦という小説を読んで思うことがあった。
それは漢帝国を長らく繁栄させた劉邦というリーダーの人柄だ。
本人は特別な優秀さを備えた人ではない。平民だし、なんの力もなかった。しかし、彼にはどうにも放って置けない魅力がある人間だった。だからこそ、周りが彼を助けるように働く。もちろん、劉邦自身は自分を支えてくれる周りの人に対する敬意を常に表し、決して軽んじたりはしなかった。だからこそ助けられ支えられ、彼の勢力はどんどんと膨らみ、天下を取るに至った。
だから、リーダーは自分を助けてくれる人を大切にしないといけない。
劉邦という成功例から考えるに、リーダーシップとは部下のご機嫌伺いであって、無理難題を強いたり威張ることではない。
劉邦の場合には、実務を行うのは補佐の役目であり、彼らの優れた意見を呑むことで適材適所がなされていた。
そして、全ての悪を根絶しようとせず、可能な限り受け入れることでより大きな力を得た。
人は一人一人意思を持っているし、感情がある。部下とはどんな命令にも従うロボットのように扱えるものだと思われては心外だし、そんな風に扱おうとする上司は最悪なパターンである。
結論としては、リーダーたるもの部下のご機嫌伺いができて一人前と考える。部下が持つ能力をうまく発揮させられる力。
もちろんリーダー本人が優れているに越したことはないが、たとえ、実務に優れずとも、人望があれば部下が支えてくれるだろう。
国王も経営者も、トップに立つものが独裁をするような国には成功例がない。仮に創始者にカリスマ性があって、独裁で上手くいくことがあったとしても、世代交代でダメになる。
トップに立つものは人心掌握さえできれば良かった。

だからこそ、これからの企業が注目しなければいけないのはお客様だけじゃない。社員も大事だ。
戦国の世でも、戦さを行う上で、敵軍の情報を仕入れ、様々な戦略を練ることは当然必要であることだが、自軍の士気や練度が低くては話にならない。士気を高めるには何が効果的だろうか。
それは、いかに働きやすい会社づくりをするか、いかに社員が楽しく過ごせるか。リーダーが考えなくてはいけない。
人生の中で最も長い時間を過ごす場所が会社であると言うのなら、そこでの過ごしやすさが社員にとってかなり大事なとこだと思う。給料も確かに大切だと思う。しかし、大切なのは給料だけだろうか?そんなことはない。例え給料が少し安くても、毎日楽しく過ごせる職場で働きたいと思う人はたくさんいるはずだ。

家と職場、どちらがより楽しい場所か?家と答えるのが当たり前だ、という意識をひっくり返すほどの改革を行い、そこに居る人達が居心地の良さを感じられる職場になれば、士気は向上する。

ただ、仕事をする以上、どうしたってストレスはたまる。そんなときストレス発散に最も効果的で、経費のかからないことは何か?
「それは、笑うこと」
とにかくたくさん笑うこと。笑える時間を出来るだけ増やすこと。笑えない職場はストレスでしかない。笑ってはいけない雰囲気なんて害悪でしかない。
つまらない冗談でも構わない、それが笑いに繋がるのなら、とても生産的なことだ。
それに、笑い声のする職場というのは雰囲気も良い。明るい表情のままでお客さんにも接することができる。
明るい雰囲気は、新しい戦力である社員を増やすことにも繋がる。
誰だって、雰囲気は明るくて、出来れば楽しく過ごせる会社へ入りたいと思ってるはず。

 

企業はこの新しい時代と、その時代を生きる人々に、対応すべく変化しなければならない時が来ている。

既存の当たり前を廃して、近代化を成し遂げたことで、西欧列強からの侵略を防ぐことに成功した明治維新のように、それまでの縦社会の体育会系な企業体質を見直さなくてはいけない。

人事評価に、人を笑わせる、職場の雰囲気を良くする人材というものも重視してほしい。
そうして築き上げた、職場の雰囲気の良さが幸いしてお客さんも笑わせることができたら、それは素晴らしい成果だと思う。

失敗のない恋愛??

次こそは最後の恋愛にしたい。

そういう真面目な気持ちで臨むという前提の話、恋人というものは安易に作れるものじゃない。安易に作れるという人はいざ、付き合ってみても、やはり無理になって別れるということを何度もしていると思う。さらに、別れる段階に至り、お互いが納得できる状態であればいいのだけど、そうでない時に別れるのはかなり酷な事だ。別れを切り出す方にとって、罪悪感が大きくのし掛かる。下手したら相手の人生を狂わしてしまう。それはかなりの心的ストレスだし、繰り返したくないと思うのは当然だ。

それならば、別れることがないような最高の相手を探して、終わることのない関係を作りたいと思うのは、誰もがそうだ。そして、それがとても難しいことだと誰もが知っている。条件を増やせば増やすほど選択肢は減り、適した人を見つけても、既に相手が居たり。

恋人を作る過程で、これだけ臆病になるんだから、さぞかし結婚なんて無理だろうと思ってしまう。

もしも妥協のかけらもない相手と相思相愛になれたなら、別れる苦労も必要なく、当たり前のように結婚がその延長上にあるので、理想の相手との階段を登る権利さえ手にすればとんとん拍子だろう。ゆっくりと残りの人生の全てをかけて、二人の絆を漸進していけばいい。

しかし、その相手を見つけることが大変な上に、その相手からもこの上なく好かれなきゃいけない。これはもう相当大変な事だ。

それに多くの場合、男女とも、好きな人に好きだと簡単には言えない辛さもある。
例え、好きな相手といい感じになれたとしても、すぐに先には進めない難しさ。
相手は本当に自分のことを好きなのだろうか?好きな気持ちは一時的なもので、飽きられてしまわないだろうか?自分よりももっと好条件の異性に奪われてしまわないだろうか?実はもっと好きな人がいて、自分は補欠ではないだろうか?

好きなのに、ネガティブな理由を探して、何度も塞いでの繰り返し。

誰だって自分に絶対の自信があるわけじゃない。相手にとって理想の恋人で居られるかもわからないし、それを演じ続けるのも難しい。

恋愛に対し真面目な気持ちを抱いてるからこそ、気になる人の中から一人に絞るのが難しい。

誰が最も正解に近いのか?色んなことを考えて、そうして無駄に時間は過ぎていく。
もっと相手のことを知りたい、それがわかれば判断材料になるから、答えも出るかもしれないし、何よりもっと同じ時間を過ごしてみたい。

緊張してドキドキするけど、楽しい時間になるはずだ。

そして成就した場合の恋愛初期の夢心地。それはもう幸せな気持ちで全てが明るく見える。相手との将来を夢見てひたすらに進みたくなる。

そして、次第に相手との時間に慣れ始め、冷静な自分に戻ってからは色々なことを考える。

楽しいことばかりじゃない、大変なことも、不快に思うこともある。どちらか一方に、あるいはお互いに軋轢が生まれ、あるいは破局に至ることも。

そして、再び…次こそは最後の恋愛にしたいと願う。

ちなみに、結婚が成功したと言える状況とはどんな感じなのだろう?
確実に言えることは、夫婦の仲はめちゃんこいいってことだ。それなくして、幸せな結婚とは言えない。

身の回りで幸せな結婚をしたという人はとても少ない。

男女関係ってホントに難しい。
もしも、最高の伴侶だと胸を張って言えるような相手と一緒になれたなら。それを守るために残りの人生頑張ればいい。

人生、伸るか反るか、チャンスをものにするための勇気を持ちたい。
たとえ、失敗したとしても、みんな前を向いて進むしかないから。

人の可能性は無限大?

僕はまだ父親ではないし、父親になる甲斐性もあるかわからない人間なので、親の気持ちはわかりません。これはあくまでこの社会を客観的に見た上での個人的考えではありますが、この世に新たに誕生してきた赤ちゃんの未来を想像しても、明るいイメージは浮かばないんです。

皆さんも心当たりありますよね?生きてて良いこともそりゃあありますが、大変なことばっかりじゃないですか。

だからこそ何言ってんの?って思うワードが今回のお題。

皆さんも、きっとこれまでに目にしたり耳にしたりする事があるであろう「人の可能性は無限大」というワード。

これって超ポジティブだと思いませんか??

大人も軽い気持ちで、子供にサンタクロースの存在を信じ込ませるのと同じようなノリで、「君の可能性は無限大だよ!頑張ればどんな夢も叶えられる!!」と迂闊に口にして、子供を良い気分にさせてしまったりしますが、冗談が通用する年齢じゃありませんから、本気にしちゃう子も中には居るでしょう。

そりゃあもちろん、ごくごく稀に夢を叶えちゃう人は居ますけど、世の中のほぼ全ての人は夢叶いませんし、生まれた時から将来の可能性は限られてます。

何年後、あるいは何十年後に当時の子供から訴えられちゃいますよ。

「脇目も振らず、夢を追いかけた結果、人生を棒に振りました。賠償して下さい」

えらいこっちゃですよ?

 

まあでも、多分最近の子供は昔より現実を見れてる傾向があるように見えます。

努力でどうにかなる範囲ってのがわかるんでしょうね。

だからこそ、そこまで大きな夢も希望もない。

あるのは生まれてしまった以上、叶うならそれなりの平均以上の人生を送りたいと思う、ごく当たり前の望み。

もしかしたら、下手な大人より現実見えてます。

本音と建前、偽善者、見て見ぬフリ。

幼いうちに見ときましょう、社会に出てから打ちのめされちゃいますよ。

 

そんなこんなで、子供ですら夢を抱けず育つ現代。

その現実が今後、さらに日本人の結婚を難しくさせる。

今いる子供の、果たして何パーセントが何人の子供を産み、育てるだろう。

条件を満たしている限られた男女のみが子供を作り、条件を満たしていない男女は消えゆくのみ。

20年もすれば、あれ?と思って40年もすればどういうこっちゃ。そんな未来が見えまする。

 

「人の可能性は無限大??それどころか未来は人が居ねえよそもそも、アホか」

気が早いけど今のうちに言っちゃいますか。

多様性はどんどん失われていく。

2016年、なんだかいつの間に時間は過ぎていく。

84年に生まれ、約31年間、時代というものの色々な変化を感じながら、これまで生きてきた。
それはたったの30年余りではあるが、その変化は割と凄いものであった。
バブル崩壊によって、国民全体が徐々に貧しくなり、スマートやエコロジーが重視される世の中へとなっていった。しかし同時にデジタルという技術が成長著しく、国民の生活は大きく変化した。
不景気とデジタル技術。
この二つの要素が変えていった生活の変化を、どれだけの人が予想できただろうか。
 
…まずはじめに言ってしまうと、結果として良い社会になったのかといえば、そうとは言い難いように思う。
 
インターネットは我々に広い世界を見せてくれた。
多種多様なコンテンツが、世の中のあらゆる興味を教えてくれた。
広く浅くではあるが、良いものや悪いものは何か、学べた。
結果として、良いものは残り、悪いものはどんどん無くなって言った。
そして、以前よりも更に、少数派より多数派の為の社会へと変わっていった。
オモチャも、ゲームソフトも、マンガも、雑誌も、ありとあらゆる種類のものが、不経済のあおりを受け、エコロジーやスマートという概念の果てに、淘汰されていった。
 
そして今この現代、改めてバブル期の頃を見て思う。ちょー楽しそうだと。
確かに中には明らかに無駄なものもあったが、それはそれで奇妙キテレツ、一興というやつである。
今ではもう、予算がないから無駄を削減するばかりで、そういう変な遊び心は全て不必要とされ、後々非難まで受ける位だ。
だから、ふと外で、無駄にお金のかかったであろう変な建築物を見つけると、感動すら覚える。
バブル期は面白い時代だったんだなあと感じて、少し羨ましくなる。
 
そんなバブル期にはあった多様性。それらは全て、景気に支えられてようやく生きていたものだ。
もちろん、今でも国民全体お金に余裕があったならば、それぞれが色々な趣味に没頭できるから、当然職種も多彩になり、聞いたことないような本当に変わった職業も沢山あっただろう。
やはりお金があったバブル期の方が文化的にも非常に勢いがあったし、数々のアーティスト志望の若者が、何とか日銭を稼ぎながら生活をして、成功する夢を追いかけていた。
 
だが、生活するだけで精一杯という今の世の中。
景気というものが衰退すると、本当に世の中がつまらなくなるのは、至極当然の事だ。
現代人がつまらなくなったのではない。
現代人の生きる社会がつまらなくなったのだ。
誰一人、危険を冒して挑戦することなく、生活だけを守り、年をとって死んでいく。
誰かに何かを分け与えるゆとりはなく、助け合いは行われず、それどころかむしろ、誰かに騙され奪われることを恐れる。
人は余裕を失うと、いくらでも非情になれるから、これから先どんどん格差社会になっていくにつれて、自殺も犯罪もどんどん増えるに違いない。
多様性とは、やはり経済のバロメーターでもあるようだ。
それと、絶滅の危機に瀕している動植物など、生物の多様性保護という国家予算で行う取り組みも、今はまだあるが、今後の景気の次第によっては、それの予算すらも打ち切られるかもしれない。
人口がガクッと減る近未来、廃村になる村も町も多々出てくるだろう。
国民総生産が減るから、当然税収も減るばかり。必要な分の労働力もないから全国の道路整備もままなら無くなるし、案外、廃墟の村に野生の王国が栄えるようになったりして。
 
 
僕の暮らす町も、以前には一つの独立した市であったが、より大きな市と合併してしまい、何だか寂しい気持ちもあった。
あちらこちら、何処でも吸収合併ばかり。
脱サラ、独立なんて言葉からは、夢や希望というより、今や不安しか連想できない。
ひたすらに、将来の保障ばかり案じて、自らに眠る好奇心を殺し、ただ、我慢しながら毎日を暮らしていくのみ。
子供の頃や、若い時ほど遊んで、色々な体験をするべきだという意見もあるが、そのような事をしていたら、その人の将来が危ぶまれてしまうから、現在まともな親なら許さないだろうと思う。
しかし、バブル期には経済の不安など無かったし、まともな給料もあったから、どんな風にでも生きていけるような気さえしていた人が多い。
 
それと、バブル期を支えたものの一つには、必ず訪れる明るい未来というキーワードがあったに違いない。
大阪万博で、未来のテクノロジーの進歩の可能性を感じさせ、国民全体に明るい未来を信じさせた。
公共事業も沢山あったから、どんなに若い頃にやんちゃでも、低学歴でも、家庭を持ち、子を育てられた。
でも、これからの未来には、もう劇的な発展など無いことが、ネットワークの進歩によって広く知られてしまっている。ネットワークは今まで知らなかった世界、未知の世界を、既知の世界へと変えてしまった。
後はもう、如何に自分の心を誤魔化して、それなりに楽しく生きていけるかを考えるしかない。それが一番ポジティブな生き方になってしまった。
 
全ての人や子供が、足並み揃えて歩き続ける事を是とする現代社会。
面白くなるわけがない。
でも、それでも人は本能的に面白さを求めてやまない。
ワクワク、ドキドキしながら生きたい。
そして、そうでなければ経済の活性化に繋がるはずはない。
我々国民は楽しまなくてはいけない。
未来のためにも。
 
幸い、結婚適齢期以下の男女にはいつの時代にも共通の楽しみである恋愛というものがある。
恋愛を奨励することが、出生率の低下に対しても有効な手段であることは、疑うまでもない。
まあ、奨励なんて簡単に言っても無理だろうし、実際やっても効果出なそうだけど。
 
多様性のある時代が、僕らの生きてるうちに再び訪れるといいよね。
人間は道楽至上主義なんだから、遊び心は必要だよ。

声も顔も知らないけど、みなさんヤッホー。

今時、他人に興味を抱く人が少ないということは、少なからずみなさんもわかっていると思う。
だって、人というものは時には面倒なこともあるからね。もっとお手軽で、それでいてもっと面白いものが世の中には沢山あるから。
でも、それなのに人はわがままだ。
他人には興味がないのに、自分の事を知ってもらいたいという気持ちは誰しもそれなりにはあるんだから。
そして、幾つになっても自分のことを賞賛されたがってる。
自己の肯定を常に自分以外の他人からも求めてる。
どうしようもない、生きてる限りずっとわがままだ。
でも、そんなわがままで自己主張が強い人間が書くブログは、案外見る人も多い。
とてもありがたいことに、このブログを見てくれる人もちゃんといる。
そして、今もこうして、自らの気持ちをここに書き込む自分自身、見てくれる人がいるからこそのモチベーション。
自分が生まれ持って今まで育んできたこの性格は、良くも悪くも自己主張が尽きないから、きっと生きてる限り、あらゆることをここに書き込む。
それが、この世界に生きる誰かの共感を誘うなら、とても幸いに思う。
 
今までにも、たくさんの偉そうなことを考えては、ここに書き込み続けた。
自分は理想を思い描くことが好きだ。
それは決して特別なことではない。大昔から多くの人間が考え続けてきたこと。
その結果としての今日がある。
そして、これから先の未来がある。
 
ただ、ここで何を思い、何を提案しようとも、それが世の中に与える影響はほとんど無いに等しい。
それでも、意味はあるのか?
望みは叶うのか?
理想は少しでも自分に近づくのか?
 
意味は、ある。
望みは叶わないかもしれない。
理想はきっと少しでも近づける。
 
自分は生きてる限り、自己満足を追い求める。
この飽食の時代、慢性的に生きるか死ぬかの瀬戸際に瀕したことがない我々日本人は、自己満足達成こそが人生の意義。
今日も、自己満足を追い求めてここに書き込む。
 
「見てください、みなさん。
今、僕はこの世界に、確かに生きていて、ここに書き込み、皆さんへ自己主張します。
インターネットの中の、わずかな文章の羅列。
声も姿もわかりません。
ですが、確かに生きて、ここに存在しています。ヤッホー」
 
わがまま自分勝手、すみません。
でも、これからもこのブログを続けます。
少しでも、誰かの共感を誘うなら、とても幸いに感じます。
 
 

理想の男女関係と、現実のズレ。

誰しも、とある異性に心惹かれ、その相手を次第に強く追い求めるようになってしまうのは、どうして?
これが、恋心…?
結論として先に言ってしまうと、その恋心というものの原動力は、包み隠さずにハッキリというが、「性欲」以外の何物でもない。
その手の学者さんも明言している。「生物学的には純愛は無い、男女にとって重要なのはセックスだ」と。(元々純愛というものは定義が曖昧なんだが、今回は性欲の結びつかない純潔的愛情とする)

 

まず、初めて出会った異性で気になるのは見た目という部分、その見た目というものも、ある程度はみんな共通項目があるが、好みは人それぞれである。
そして、その人の好みという琴線に触れる異性の存在を目の前にした時に沸き起こる欲望とは、恐らく男女共通「性欲」以外の何物でもない。
ある人の容姿に特別な魅力を感じたのなら、それは理屈で表すことのできない本能的なもの、性欲だろう。
ハッキリといえば、琴線に触れぬ相手とは、異性としての評価が出来ない相手のことであると思う。
ただ、だからといってそんな人との恋愛が全くありえないというわけじゃない。趣味が合ったり、話が合ったりで、仲良くなることがあるかもしれない。1日のうちに、その人のことを考える時間が長くなると、人は恋に落ちやすいという説もある。
だから、そうして仲良くしているうちに、かわいいと感じたり、抱きしめたいと思う気持ちが芽生えたのなら、結果として性欲が抱ける異性となりえる事もある。
ただ、容姿をスルーした上での、中身を気に入って異性として評価した場合、もしも中身に疑問を抱いてしまうと、元々容姿から感じる性欲のフォローがないので、よほど相性が良かったり、強い絆や思い出が無ければ、余計に悪く見え、とたんに崩れてしまう。
例えば、とある2人は、お互い性欲を感じて相思相愛至り、恋人同士となった。
しかし、そのどちらかが、いつの間にか著しく容姿を悪くしてしまい、一方が性欲を感じなくなった時、些細なきっかけで別れの時が訪れる可能性が上がる。
相手に性欲を抱けなくなると、もうどうにもならない。

恋心は次第に冷めていき、あるいはその気持ちが違う人へと向かってしまうこともあるだろう。

だから、容姿と性欲はどんなに歳をとろうとも、男女の関係を望む限りずっと重要なポイントである。

あなたが男女関係の理想を追い求めているのなら、かなり重く受け止めるべきだろう。

 

 ただ、非常に残念なことに、実はどちらにしても同じ相手に永遠に性欲を抱き続けるのは不可能なことであって、脳内から出る恋愛ホルモンもある期間を過ぎると分泌が止まる。

どんなに世界一素晴らしい相手だと思って付き合いを始めても、そのドキドキはいつか必ず消えてしまう。
それが一般的に言うカップルの倦怠期というものだ。
こればかりは、本人がいくら頑張ろうと思ったところで、恋愛ホルモンは出てこない。
この倦怠期を乗り越える方法はあるのだろうか?

答えは「YES」

しかし、これまた残念なことに、この倦怠期を乗り越える最も効果的な方法は、一度距離を置くということ。
全く会わず、連絡も取らない期間を設けると、脳内のカウントがリセットされて、不思議なことに再び会った時に恋愛ホルモンがしっかり出てくる。
だから、例えば冷め切ってしまった夫婦も、単身赴任などで距離を置くと再び恋愛ホルモンが出て性欲が沸き起こるのだという。ただそれはあくまで、再びお互いの容姿に問題なく性欲を抱けるかどうかという前提もあるのだが…。
恋愛初期は、とにかく一緒にいることがとても幸せで、濃密な時間を過ごすことができる。
ただ、あまりにも同じ時間を過ごしすぎると、倦怠期を迎えるのも早いらしい。
だから、ドキドキする気持ちを取り戻したいと思うなら、必要に応じてではあるが、会わない期間を設けることも残念なことに必要となる。
倦怠期の乗り越え方には色々な方法があれども、全く会わずに脳内リセットをすること以上に効果的な方法はないらしい。

しかし、好き合って交際を始めた二人にとって、いくらやむを得ずとはいえ、音信不通なんてどう考えても進んでやりたいとは思えないことだし、お互いが同時に倦怠期であったならまだしも、片方のみだと辛いに決まっている。

それでもなんとかカップル同士であれば可能ではあることだが、いざ結婚したら、同じ家で暮らすことが当たり前となる。

その状況でどうして、距離を置くことができるのか?
この場合においては、倦怠期となることもある程度仕方がない。なぜなら、夫婦は子供を育てなければならない責任があるからだ。(もちろん、子供がいない夫婦は例外)
恋愛初期のドキドキはある程度諦め、良い家族になる必要が出てくる。
好き合って、一生側に居たいと強く願い、結果として結婚に至り、子供を産んで、その恋人同士は終わりを迎え、家族となる。
家族とはなんなのだろう?子供は喜ばしいが、どんなに愛し合った恋人同士もいつか終わるなんて、寂しい話だ。

もちろん、暖かい家族愛や、落ち着く雰囲気があれば、何もかも悪いというどころか、立派な幸せの形だ。

しかし、ドキドキしている時に感じる幸せは、やはりすごい。

人間の本能的な問題で仕方がないとはいえ、なんとか良いとこどり出来ないものだろうか?

タイトル通り、理想の男女関係と現実のズレである。

 

家族になってからの問題のほうがより深刻だ。
どんな方法が、夫婦を再び恋人同士へと復活させるのか。
倦怠期の完全リセットの為には、会うことはもちろん、連絡もしないのが重要だが、夫婦においては不可能なことだ。
その度に離婚して再婚するなんて、とても出来ない。

今現在は効果的な方法がわからない。
しかし、その問題を強く認識した上で、夫婦で相談しあって生きていければ、何もせず成り行きに任せるよりは、うまくいくのかもしれない。

それと、もし一度は別れてしまうことがあっても、再び二人が会い、再び恋に落ちるような事があるなら、その時はきっと以前よりも、もっと強い絆で結ばれるに違いない。

再び結びつく事で、お互いの必要性と唯一無二を再確認するのだから。

最終的には、性欲よりも思い出と絆、家族愛が勝るのだろう。

 

最後にもう一度
「純愛は無い、あるのは如何にその人とセックスしたいかという気持ち」
そこが男女の原点。
それを知った上で、理想を追い求めたい。

好奇心を抱き続けるには

まだ小学生にもなる前の子供の頃は、とても世界が狭かった。

しかし、その世界は全てが新しいことだらけだったから、狭いからつまらないとは少しも思わなかった。
まだ身長の低い時代、地面との距離が近く、道路をただ歩くアリにさえ興味を抱いた。
色んな石の形を見たり、積み上げたり、投げたり、壊したり。どんなことも楽しめた。
親の運転する車に乗り、外へ出かける度、見慣れない世界に触れてワクワクした。
特に台風の時なんか、ワクワクした。
いつもの見慣れた近所の道路が、まるでプールのようになっていて、長靴を履いて歩くだけでも楽しかったし、何かを浮かべて遊んだりもした。
まだ何も知らなかったから、何もかもが新鮮で、些細な事で何度も遊んだ。
 
当然、大人になってからは、そんなものには少しの興味も抱かない。
ただ、ただ、下らないと思うだけで、見向きもしない。
その理由には、大人とは大人らしく振る舞うべきという、概念にとらわれてしまったというのもある。
例え大人であろうとも、本当は思い切りブランコに乗りたいし、滑り台も思い切り滑りたいという気持ちがあるのではないだろうか。
でも、多くの場合、それが既に飽きてしまった事だから、という理由で興味がわかないのだろうと思う。
どんな楽しいことも、何度も繰り返し遊べば、いつか飽きる。
大人になっても、楽しいことを追い求める気持ちに変わりはない。しかし、何事も初体験は一度きりだ。
一つの物事に、いつまでも新鮮な気持ちを抱き続けるというのは、ありえないことだ。
だから、常に新しいものを追い求めては、飽きて、また次の何かへ。
それを、生きてる限りずっと繰り返していく。
そして、あらゆることに、どんどん飽きていく。
歳を取れば取るほどに活力を失っていくのは、好奇心を失っていくからなのか。
知りたいという気持ちを徐々に失い、日々がつまらなくなってしまったからなのか。
 
何かを知る事で、その知識を得ると同時に、その時抱いていた好奇心を失うのなら、今の時代は余計に多くの好奇心を殺すことができるだろう。
お手軽なインターネットは沢山の好奇心の墓場。知りたいと思った事をすぐに調べられるし、時間の許す限り、それをいつだって繰り返せる。同時にそれまで抱いていた好奇心を次々と失う事ができる。
 
ただ、それでも幸いなことにこの世界、興味の種はまだまだ尽きない。
世界中の人々が、今も誰かの一時の満足の為に、苦労してくれている。
だから、好奇心は次から次へと、その対象を見失うことなく、移ろい続ける。
生きてる限りいつまでも、知りたいという気持ちを失わず、好奇心を持って、あらゆることにトライしていきたい。
どうせなら、一度きりの人生、楽しく生きたい。
 
 
 
余談。
きっと、子を持つ親になったが最後、自分の好奇心の為に生きることを放棄せざるを得ないだろう。
自分の人生という、その物語の中で、主役の座を我が子に譲るというのは、随分と勇気のいる決断のように思う。
そんな自己犠牲の精神。
子を持てば、自然と湧き出るようなものなのだろうか。
今はまだ、わからない。
(8/19 追記)
その人との幸せの為なら、全てを投げ捨てても構わない相手を見つけた。
主役の座を手放すのではない。共有するんだ。
文字通り、全てを投げ捨ててしまえる。
例え、大好きな趣味でさえも、その人との為なら躊躇なく捨ててしまえる。
(一年後)
熱病でした。趣味大切です。