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学校では教えてくれない裏の価値観

日常に根ざした事柄を追求して、はっきりといわせてもらいます。

仏教とヨガと宗教学と哲学

ヨガ エゴ 教育 宗教学 成長
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この世で唯一の知的生命体である人間は、その文明を発達させたおかげで餓死の心配が少なくなった。
生きることに精一杯だったそれまでの生活から、人は新たな想像の世界へと向かい始めた。
文化の黎明期には、やはり宗教が生まれ、様々な正しさや考え方が溢れかえり、戦争すらも巻き起こした。
宗教が起こした戦争は、一部の指導者の考える正しさを追い求めた末の結果だった。
両者とも、自分たちとは違う考え方を根絶させるためだけに沢山の命を奪い、ジハード(聖戦)というただの言葉によってどれだけの悲劇が繰り返されたのだろう。
沢山の悲劇の末に、大衆の考え方は無理やり統一され、戦争の無い平和な世の中が生まれる。統一された考え方のもと、大衆を団結させ、現体制に逆らうような違う考え方を持つものは、いつの時代も弾圧されてきた。
一体、その平和とは誰のためのものだったのだろうか?
一部の指導者達の平和なのではないだろうか?
全ての人が自由に生きられる平和こそが本当の平和だと言うのなら、全て考え方を可能な限り、容認するべきではないだろうか。
和をもって尊しとなす考えと、個性を尊重する考えは相反する。
学校では様々な教師が、子供の成長に影響を与えている。自身も今までに色んな教師に出会った。独自の行動と考え方を容認してくれる人もいれば、無理やり自分の思い通りの人物に変えようとしたがる人もいた。
前者の時は楽しい思い出ばかりだが、後者の場合は苦しい思い出ばかりだ。
後者の時にはノイローゼになりそうなこともあった。それほど押さえつけられる事に抵抗がある。
人にはそれぞれ個性がある。その個性が新しいものを常に生み出してきた。文明の発展にも、多くの独創が役立った。

哲学や宗教学を学ぶことで、人は自らの生き方や人生をより意識するようになる。
「私はなぜこの世に生まれた?」
「私はなぜ今ここで生きている?」
「私は死ぬまでにどれだけのことができる?」
素朴な疑問は次々と生まれる。
「なぜ苦しむ?」
「なぜ死がある?」
その答えはおそらく見つからない。しかし、それでも考えることに意味があると思える人は、今生を終えるまでに少しでも見つからないはずの答えに近づける事だろう。

ちなみにスピリチュアル芸人は嫌いです。あんな連中のやってることは思考停止の状態だ。
疑問や考えることを放棄させ、他者の言う事を心の底から信じて、ただ指示されるがままに生きる事が是と唱える人間が、世の中では立派だと言われているが、自分には受け入れられない価値観である。

確かに、個人主義というものは社会にとって悪だろう。
みなと同じように暮らすことで平和が保たれるのなら、個人主義はその平和を乱す存在だろう。
しかし、世間がどんなに正しいと言って、考え方を押し付けてこようとも、自分で考える事をやめない。自分で考えた末に納得できたもののみが正しさだ。それが悪だと言われようとも結構だとさえ思う。周りがどう言おうとも、自分で考える事を決してやめない。

ネットにある情報はほとんど自由に回覧でき、違う考え方を持ち、それを言葉にしても殺されない時代に生まれてよかった。昭和の戦時中ならスパイかテロリストとして投獄されたりしてもおかしくない。下手すれば右翼に殺される。

今のこの考え方が、最終地点ではない。

これからも多くの価値観が、多くの影響を与え、それを考えた末に価値観をも変えていく。私自身、一つの考えにずっと固執するつもりはない。納得さえできればこれからも新たな価値観はどんどん取り入れていく。


ちなみに、基本的には自分と違う考え方を持つ人を否定したりはしない。ただ、ろくに考えもせずになんとなくそういう答えに行き着いたのだとか、自らたどり着いた答えでないものを自分の考えと言い張る人の話には、あまり興味はない。

哲学や宗教学は、考えることを放棄しない人達にとって、実に興味深い分野のはず。
もし、興味があるのなら人生狂わす恐れもありますが、どーぞ。