学校では教えてくれない裏の価値観

日常に根ざした事柄を追求して、はっきりといわせてもらいます。

ボキャブラリーを義務教育に加えるべし。

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「面白い人不足」という重大な社会問題を抱えている日本!!

これはもしかしたら既存の社会問題よりも重要な問題なのではないかと思う。
なぜかというと…

我々人間は、面白おかしいことがとっても大好きな生き物だからである。

笑うことはストレス社会に生きる人にとって心のオアシスである。
だからたとえ社会に出ても、みんなで笑いあえる環境さえ整っているのなら、仕事ばかりの暮らしでも、凄く生きやすい世界になるのではないだろうか?

現代人はユーモアがない人間が多い。

残念なことに、昭和の世代の人のほうがユーモアの大切さを理解している傾向がある気がする。
現代人はなぜなのか、いまいち面白い奴が少ない。
ということは…
このままでは、日本は陳腐なユーモアしかない、つまらない世界になってしまうではないか!!
これは人類終焉とかよりもよほど身近で重要な問題だろう!
我々はもっと笑って過ごすべき生き物なのだ!!

下らない話だろうと、アホみたいな行動だろうと、人を楽しませることには変わりない。
初めは恥ずかしさもあるだろうし、失敗も仕方がない。
だが、あなたの周りのみんなも、どうせ誰かと共に過ごすなら、面白い人と過ごしたいはずだ。
例えばウンチクだって普通ならつまらないところを、ウンチクすらも面白く話せるのなら、なんであろうと「良い」と感じるものである。だからなんでも面白いほうがどう考えてもお得なはずだ。
だからこそ、面白くない人っていうのは凄く勿体無い事だと思う。
是非今からでもユーモアを訓練して、笑うという快感を「与える側」の人になってほしい。
笑いが国民全体をいかに喜ばせるかを考えると、国を挙げて人材育成に取り組まなくてはいけない!
当選したくて四苦八苦してる政治家も、「笑いで日本を変える!!」とか言えば若者が面白がって投票するんじゃないだろうか?
もちろんその場合は「政治家は嘘つきなので、これも嘘です。」なんて許さんです。

それと、おっさんギャグだって雰囲気を良くするためには大事!例えウケなくてもね(笑)
ウケないギャグばかりでも、そういう楽しませようとする心遣いは皆察してくれるだろう。
だから少しづつでいいから、皆でどんどんチャレンジして一緒に笑いあえるといいなと思う。

そして、これからの子供が担う未来のために一番効果的なのは、学校がこの問題に取り組むべきだということ。
今日の学校教育というものは、人を助けることの大事さや、人のために働くことの大事さは教えても、人を楽しませたり笑わせることの大事さは教えてくれない。
そういう部分を見ても、学校の教育はうまく人の心とリンクできていない気がするのである。
学校では、人に迷惑をかけずに、人を傷つけたりせずに、大人のいうことをよく聞いて正しく育ちましょう!と教えるのだろうが、勿体無い事にユーモアや芸の大切さは教えない。
いかにボキャブラリーというスキルが、その人の人生を豊かにするのかという点には、義務教育は介入しないのだろうか?
確実に生徒からは大人気の授業になると思うのだが。
そんな授業があったら生徒もやる気満々だし、みんなでユーモアを競い合って、終いには校内漫談会のような催しまで開催されて、両親も我が子の話にウケるという好循環!
そしていつか世界的に有名なコメディアンを輩出するかもしれないぞ!!

だから、是非子供のうちから、ユーモアセンス向上の教育を取り入れてほしい。
そしたら世界中から「日本人は面白い奴が多い」なんて評価を頂けるじゃん!!
そして日本人の国民性は「ユーモアで築く和を大切にする民族」に変わるかもよ!!

うん、いいね!
それでいこう!!

なぜ、あなたの話はつまらないのか? あさ出版電子書籍

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ブログは現代版タイムカプセル。

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最近こうして記事を書いていて気づいたこと。

それは…

ブログという手段を用いて個人の生きた記憶を残すことこそが、あるいは人生の中でも特に大事なワークなのかもしれないぞ!という事です。

写真を残すことも良いとは思うのだが、どんな人であったのか?、どんな人生を送ったのか?どんな哲学を持っていたのだろうか?写真から推測できる情報には限りがある。
だから、沢山の情報を伝えたいのなら文章で書き残せるブログのほうがいい。
今を生きる人間の、日常や考えや経験を文章を通して読み取ることができる。
それも、多くの場合はちゃんとした読みやすいコンテンツになっている。
自分という人間がどのような考えで生きているのかを他者に伝えたい時にも大いに役立つ。
文章というものは自由度が高いものだ。組み合わせは無限大で、やりようによっては傑作にもなり得る文章が誕生する。
さらに文章は新たな世界観すらやすやすと創造する。
架空の世界のドラマまで描けるのが文章である。
 

ブログは日本の文化への貢献だろう。

ブログとは、個人の人生という生きた証を残す作業である。
そしてそれは、世の中に対して非常にポジティブな行動だと言える。
なぜならこれは、自分のためでもあり、人のためにもなるからである。
だから、読んだ人の利益になる文章を書いて書いて書きまくるワーク、これを行ったブロガーはかなり日本の文化に貢献したといえるはずだ。
 
数年後に自分の記事を見て感慨深くもなれるこれは、やっぱり現代版タイムカプセルだとも言える。そして同時に生きてきた証を残すことでもある。
 
みんなちゃんと良い文章を書いているよ!

ヤローチックショー!負けてられん!
俺もやろう!

 

 

LIFE STORY

LIFE STORY

 

 

 

 

クレクレタコラ見て我が振り直せ。

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この世には大きく二つに分けて

「与える側」 「 与えられる側」
の人間がいる。


ただ勘違いしてはいけないのは、この二つの関係はきっちり分かれているわけではない。むしろ厳密には分かれていない。
いきなりわかりにくくして申し訳ないが説明すると、
普段は与える側も与えられる側にもなるし、普段は与えられる側も与える側になることがある。
この二つが、お互いバランスを取り合いながら、この世界は成り立っているのである。
しかし、世の中にはこの関係を理解せずに与えられる側にずっと居たがる人が多くいるようだ。
わかりやすく言えばギブアンドテイクがわからない人々のこと。
彼らは与えられることをいかにも当たり前かのように感じているのか、何様だ?と思ってしまうことが多々ある。
それまでの人生が恵まれていたのか、一方的にくれるだけの人が身の周りに沢山いたのか、何かを受け取っても嬉しそうにすらしない。それでは与えた側は気分が悪くなると思うんだが…。
連中はどうやら受け取ることへの感謝という気持ちがすっかり欠落しているようである。
これでは他人に好かれるはずがない。
きっとそういう人は与える側になったことがほとんどないのだろう。
だから相手の気持ちなんか考えたこともないデリカシーの欠片もない人々だと思ってる。


それと、お金さえ払えば感謝する必要は全く無いと思っている上に、接待ようなことすら要求してくる輩。
そういう人、嫌いです。
確かに多くの接客業では「お客様は神様」という教育を押し付けてくるんだろうが、殆ど誰もそんなこと納得してやってるわけがない。
そりゃそうだよ。

威張り散らした最低のクソ野郎が神様であってたまるか。

連中は本当に自分を神様だと思ってるからあんなに威張れるのだろうか。

「オーマイガー」


というわけで、もし少しでも心当たりがある方は今からでも決して遅くありません。むしろ気付いただけまだマシな方です。
受け取る事を当たり前と思う前に、与える側を経験してみましょう。
ただのクレクレを脱して、人に喜んでもらえる何かを自分の中に身につけましょう。そして、人を喜ばせる何かを作り出し、提供するのです。
そうすればなんと、相手が喜びます。

どうせなら、生産的に楽しく生きましょう!



選挙カーでわめく反面教師のゲス野郎たち

えーと、今回はいつもより暴言吐きます。
元ネタ
 
 
 
 
 
「政治家って、なんだ?」
「それは、この日本に暮らす全ての国民がより良く暮らせるように、あらゆる事を考えて行動に移す人達のことだ」
「え、そうなの?俺はてっきり、もっともらしい嘘をつきまくって、当選を果たしたら踏ん反り返って何もしない上に、我々の税金で私腹を肥やす事だけには熱心なクソ野郎だと思ってた…!」
 
 
いや、本当に不思議なんだよ。
一体なんなのだ、あの連中は。
なんの志も持たず、欲しいのは権力と金。
そのために何でもかんでも嘘をついて善良な市民を騙しては騙し、何が清き一票だ馬鹿野郎!
選挙ポスターの顔も薄汚い微笑みを浮かべてやがる。
選挙カーに乗り込んだアルバイトのババア共は下らない媚を売ってきやがるし、選挙カー自体はゆっくりダラダラと走りやがる。そいつらのほざく事が国民の生活のためだと?だったら交通の邪魔だから帰れよ。
 
そして、何が「ありがとうございます」だ。
お前らに感謝されるようなことは一つもないし、感謝されたくもない。いい加減にしてくれ。
もうお前らのその呪文は、聞き飽きたを通り越してとっくに不快のど真ん中だ。
自民党公明党共産党民主党だ、もう信じちゃいないよ。
それどころか良識のある人にはとっくに「あんなクソみたいな大人にはなっちゃいけません」と反面教師として見られてるんだよ。
何が「この国のために、皆さんのために!」だよ。選挙カーの近くにいるとき心の中で何度「うるせーんだよクソババア!!」と叫んだことか。
その時拡声器があったらどれだけdisできたのかを思うと残念だよ。
 
 
 
公明党は宗教だから信者がなくならない限り大丈夫だね。
他の連中も、ブラック企業との癒着を怠らなければ再選できるよ。
 

この国の政治家は腐ってやがる。どいつもこいつもゲスしかいない。

果たして、この国の政治は他の国に比べて、それでもまだまともなのだろうか?
 
 
 
 
どさくさに紛れて大好きなブルーハーブを宣伝しちゃいまチュ。
↓選挙の内容の曲です。

 

 

 

TOTAL

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失われた想像力を取り戻すために

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昔からなのかもしれないが、活字の本を読んでも訳がわからないという人が多い。

これについては、普段から活字を読んでいるかどうかはとても重要なことで、その下積みが読解力にも文章力にも繋がるし、会話力にも大きな影響がある。
そして普段から読んだり書いたりすることで、自分の考えを言語というパズルで組み立てる事ができるようになる。当然、思考パターンも自ずと論理的になっていくと思う。
自分の考えというものは、文章化することでより理解が深まるものだ。その理解がなくては内容を他人に言葉で説明出来るはずがない。

小説に関しては、言葉の理解力も当然のことながら、言葉の臨場感というものが重要になる。
あれは想像力を膨らませながら読まないと臨場感が少しも湧かないと思うので、活字から想像するのが苦手な人には面白くもなんともないだろう。
 
それならば、具体的に何をどうすれば活字からの情報を処理し、想像力を取り戻せるのか?と言われると、当然本は読むべきなのだが、それ以外のアプローチはどんな事が有効なのか?
ざっくり、2点かしか思いつかない。


1.ヨガを行い、体内の気の流れを良くして、調子の良い日々を送る。

人間のパフォーマンスというものは体の状態に激しく左右される。人生をより良く送るためには、健康で調子の良い状態を維持することが、特に必要不可欠な事だ。
そしてヨガは瞑想でもある。瞑想により、あらゆることを観想するのは想像力を身につけるためには最も効果的な方法だろう。


2.地上波のテレビ番組は敢えて一切見ないようにする。

地上波の番組に関しては、視聴者を思考停止状態に追いやるための様々な工夫が織り込まれている。
ひたすらに画面は切り替わり、どんどん進行される番組は、視聴者に考える暇を与えない。
これは完全に宗教が用いるマインドコントロールの方法と同じなのだ。
この影響は、若者の想像力欠如だけではなく、マインドコントロールにかけやすい人種を育てることに繋がる。
そして、同時にこれはボケ老人量産システムでもある。
高齢化社会にかかるコストを懸念して、とっとと老人を昇天させるつもりらしい。連中のやることはえげつないが、アホな民衆にはまだバレてない。よってこれから先の時代にも、まだまだ繰り返されるサイクルだ。
うちのじーさんばーさんもこれに殺られた!!(痴呆だがまだ存命中)
ちなみに、有料放送はまだマシな番組が多い。


というわけで…
何個もグダグダと並べても印象が薄れるのでたったの2つだが、このくらいにしておく。
基本的な共通点としては、思考停止をせず、常に何かしらを考え続けろというものである。

しかし、ずっと地上波のコンテンツに依存してた人たちにとって、それを見るのをやめるのは辛いだろうね。
あれしか楽しみがないという人は多いから…。
更にヨガは面倒だろう。家族がいる家では、落ち着ける空間なんてどこにもない人が多いだろう。
だからこれだけ書いたものの、はっきり言えば困難なことだと思う。
ただね、効果的な方法、教えるだけは教えたよ?
あとはあなたの自由だ。


主張や好き嫌いははっきりすべき。

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日本人は、どうも答えを曖昧にしたがる人が多い気がする。
「いいね」とかしか言わない人の肯定なんか薄っぺらいことこの上ない。
いいと思うんなら何故いいのか、いいと思ったポイントを述べてくれ。
 どうせ、なんだかよくわからないけど肯定すればいいんじゃないかと思ってるんだろう?

どうしてなぜ自分の考えを持とうとしないのか。
はっきり好きだとか嫌いだとか言えないのか。
もちろん恋愛のことでは、言えない気持ちもわかるのでそれはいいんだが、それ以外に関しては明言したっていいだろう。
「私は◯◯が好きで◯◯が嫌いです」
という感じで、はっきり好みを主張したほうがいい。
みんな何が好きで何が嫌いかなんて聞いてないかもしれないが、一方的に言ってしまえ。
そうすれば、この人はちゃんと自分の意見を持っていると思ってもらえるだろう。悪い言い方をすれば我の強い人だと思われるだろう。
でもね、いいんだよ。我の強い人だと思われても。
今の時代、我の強さで衝突することは少なくなったのだから。
それに、好みをはっきり言う人というのはいやらしくなくて明快で良いとも思えないか?

大学のレポートというものも、常に客観視が求められるから、自分の意見や憶測や好みなんかを書くスペースがないと思うが、そういうのが俺は嫌いだよ。
いいじゃないかエゴイズムでも。
生きようとする事自体がエゴなんだし、その人生はエゴを突き通すためにあるんだから。
わがままを言わない大人が立派だ??
そんなセリフは、本当にわがままな奴が作り上げた屁理屈だよ。
言い出しっぺは本当にわがままな奴だから、自分のわがままを押し通すために、あなたにわがままを言わせないようにするために、そんなセリフを使ってるんだろうね。
いいじゃないか、わがままに育ったって。
そのわがままをまかり通す実力さえあれば、それは優れた指導者と言うんだよ。
だからわがままに生きたいのなら、貫き通すに必要な実力を身につけろってことさ。

それで嫌われたんなら実力不足だ。もっぺん勉強して出直してきな。
その失敗も繰り返せば繰り返すほど、実力は身につくのだから。

一応言っておくが…優しいかあちゃんにわがまま言っても実力は身につかんぞ(笑)

無理やり入眠を強要された幼少期

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「寝る子は育つ」
なんかよくわからんが、世の中にはこういう言葉がある。
確かに、よく寝ることは悪いことではないかもしれないし、科学的にもどーたらこーたら良いことがあるのかもしれない。
…しかし今更ながらに気付いたんだ。
どこでも幼稚園ではお昼に睡眠することを強制しているかと思うが、あれは大人にとっての休憩時間だったんだね。
そりゃ、子供ってのは一時も目が離せないくらいに手間のかかる連中だ。それが何人も居て、全ての面倒と責任を負わなくてはいけないのは凄く大変だろう。
だからこそ「お昼休憩だけは頼むからお前ら寝てくれ!」って気持ちにもなるんだろうね。

ただ、寝かされる側の意見としては、はっきり言って眠たくないのに眠ることを強要された幼少期はとてもストレスだった。
じっとなんかしていられないし、もっと遊びたいのに、寝ろと言われて寝るしかない。しかし、眠くない。となると、寝たフリをしなくてはいけない。
そう、これは自らの意思で自分に金縛りをかけるのと一緒である。
意識は冴えているのに、動くなと言われて、30分くらいじっとしているのは結構な苦痛であって、嫌な思い出だ。
ちなみに寝たフリをしなくてはいけない状況は、幼稚園だけではなく、自宅にも存在した。
そう、夜遅くてもう寝ないと怒られる状況である。
もちろん、寝たフリを行うのだが、相変わらずこれも苦痛でね。どうすりゃいいのかさっぱりわからないし、いっそのこと寝てしまいたいんだか、眠れない!寝たフリだから、あまり動けない。
だから気持ち的には「布団をふっとばして」飛び上がりたい位でした。

そう考えると、大人は自由が沢山あるね。
子供の方が自由だという意見があるが、教育に厳しい?家庭によってはそうと思えない部分が多い。
朝早く起こされて、朝7時から昼3時過ぎまで学校に居て、夕方まで塾に行く。そして、夕飯の後は宿題をして少しの自由時間の後に睡眠時間の到来。
家庭によっては、これから両親のパコパコタイムなので起きてはいけないのはもちろんの事だろう。
うーん、自由があるとは思えない。

教育に厳しいって、本当に都合のいい言葉だね。自分の思い通りに子供を操りたい大人にとって、自分の行動を肯定するための最高のセリフだね。「お前のためを思って」なんて言えば、押し付けも正当化できてしまうんだから。
子供心にも、腑に落ちないが怒られるのは凄くストレスだろうし、言うことを聞くしかないので、大変だっただろう。
学校からも、親からも、やるべき事を強要され、自分のやりたい事は少しもできない。当然、親は本当にあなたにとって必要だからと思って強要してくるのだとは思うが(深く考えずに)ほとんどの場合は「独善的」な視点から判断を下しているに過ぎない。
本来であれば、我が子の性格を考慮して、何が必要で何が必要ないかを、あくまで子供の立場になって考えないといけないはずだ。子供には模範的で画一的な教育をすれば必ずいいはずなんだと、まともに育つはずなんだと、信じてしまっているのか?

この国は、教育意識が高いだとか言われているかもしれないが、それは幻だ。
連中の考える教育観というものに大した哲学なんぞはない。
多くの場合、自分の親が自分に対して行った教育を自分の子供にまた繰り返せばいいのだと思っているんだろう。
子供は本当に楽しく幼少期を過ごせているだろうか?
幼少期という多感な時期に、親の独善で一方的に子供を抑えつけ、教えるのはやってはいけない事のみで、なぜいけないのか理由は語らず…。これでは個性を失うのも仕方ないと言える。
子は親を選べないし、子は教師を選べない。
だから、人によっては辛い辛い幼少期を送っていたりもするし、心が湧き踊るような幼少期を送ったものもいる。
これらは、確実に子供の人生を左右する問題点だ。

そういうわけだから、俺は個人的には教育や人の心に関心を抱かない人は好きじゃない。
そういう人は大抵、優しさを勘違いしている。ただの独善を行っているに過ぎない。はっきり言えば、思慮不足。
だからね、こういう事を考えている自分はこう見えても「情に厚い」と思う。
人の頑張る姿にどうしても心を打たれてしまうんだから(笑)
そして、だからこそ、自分の心や人の心のことをよく考えてしまう。あくまで冷静に判断することを心がけますがね。

え、情に厚いとは思えない?
そう言われるとそうかもしれません(笑)
そこまで自信はナイチンゲール